オペラ鑑賞
3月30日{日}午後2時より富山市民プラザ・アンサンブルホールで碓井絵美さんの、「愛の唄コンサート」が開催された。音楽とは、無縁な私が何故鑑賞したか。実は私の息子と絵美さんは同級生であり、しかも滑川市民であることから、以前より面識ががあったからです。
それにしても、音楽と一口に言っても幅広く、奥深い分野の中で、特にオペラとは私から遠く離れた存在でした。
強いて言えば、米国の作家ロングの小説を基にプッチーニが作曲し、Dべラスコが戯曲化し歌劇「蝶々夫人」として上演され、これを日本人、三浦環が戦前ソプラノ歌手として、「ある晴れた日に」など朗々として歌い上げたことから、その後、国際的なオペラ歌手としての名声と地位を確立していったことと、内容が明治の中期長崎に寄港した米国海軍中尉のピンカートンと結婚した蝶々さんとの悲恋の物語程度の知識しかない私が、生の唄声を聞くのは初めてでした。
しかもアモーレならイタリア語でわかりますが、恥ずかしい話ですが、どの曲を聞いていても、どれがスペイン語の歌でどれがイタリア語の唄かも判断できない私です。しかし、あの高らかに歌い挙げる美声は何処から出て来るのだろうか。
そして時々、落語や長編歌謡浪曲など、あんな長いセリフをよく覚えられるものと感心していますが、絵美さんの場合は、日本語と違いイタリア語、スペイン語を自由自在に歌いこなし、しかもあれだけ長時間楽譜も見ず歌うのだから大したものです。
よほど勉強や練習しなければ成し得ません。その努力には敬意を表します。と同時に、もし人間の生活の中に、音楽が無かったら我々はどんな生活をしているだろうか。全く無味乾燥な生活を過ごしているかも知れない。音楽や芸術は目には見えない心の豊かさや、感動や勇気・元気を与えてくれるものである事を改めて教えて貰ったような気がしました。
最後に彼女はあいさつの中で
「私は学校で先生をしている。オペラの勉強と練習、これに学校での授業。両立させることは大変です。しかし一つの物事を最後まで諦めることなく、努力することで、生徒を含め何かのお役に立てればと思っています。」
長々と述べるより、絵美さんの恩師清水先生の言葉と絵美さんの「ごあいさつ」をプログラムの文より転載します。
絵美さんへ 清水まり
本日はCanto dell amore、愛の唄コンサートの開催おめでとうございます。責任ある職業とプリマドンナとしての二刀流の準備期間を経て、本当によく頑張りました。
時を戻すと、まん丸顔でおかっぱ、そして、赤いほっぺの貴女は、昭和音楽大学の門をくぐり、清水門下生としてやって来てくれました。毎日をひた向きに出力全開で大学ー大学院ー日本オペラ振興会オペラ歌手育成部研究生ーとスキルアップしていかれた日々が甦ります。プロとして大人の女性としての成長と活躍は富山の皆様がよくご存知と思います。
絵美さんの変わらないこと・・・豪快な笑い声と笑顔、声楽道への情熱者としての素養とたゆまぬ努力です。これらを持ち合わせ、堂々たる{お姿ではありませんw}お心のまま、コンサートのテーマである「たくさんの方々への愛」を込めてどうぞご披露ください。
今日のプログラムには、碓井絵美ならではの珠玉の音楽が奏でられます。私は胸がわくわくしてなりません。さあ凛として、貴女の素敵なご両親さまへ、愛し支えてくださった皆さまへ。そして、このホールにお集まりくださった皆さまへ いざ出陣してください。
2025年3月29日
ごあいさつ 碓井絵美
本日はCanto dell amore 愛の唄にご来場いただき,誠にありがとうございます。Canto dell amoreはイタリア語で、カントは「歌」、アモーレは「愛」を表しています。
2025年は、私が声楽を学び始めて30年の節目となる年です。30年前、大好きで進んだ「声楽の道」ですが、音楽と向き合うことが辛くなり、歌うことをやめてしまいたいと思うこともありました。それでもやめずにここまで続けてこれたのは、家族や友人をはじめ、これまでお会いしたたくさんの方々の「愛」に支えられてきたからだと思います。
そして、本当に辛いとき、私を支えてくれたのは、やはり音楽でした。音楽のもつ不思議な力が私に「再び頑張ろう!」という力を与えてくれました。
本日は、これまで声楽を学ぶ中で、いつか歌ってみたいと憧れてきた作品をプログラムに擬縮しました。主催のOPERA 、GYM{意味・スポーツジムでトレーニングするように様々な音楽にチャレンジする}の精神で、日本語、イタリア語、スペイン語で挑戦します。
情熱的であり繊細でオーケストラのごとく彩り豊かな音楽を奏でるピアニストの北村晶子先生、艶やかな「THE メゾソプラノ」の美声を持つオペラ歌手の山本千鶴さんをお迎えし、様々な「愛」の形を奏でます。これまでの感謝の気持ちを込めて歌います。
Canto dell amoreどうぞお楽しみください。
これがお二人の言葉です。何も加える必要はないと思います。
素敵な歌声ありがとう。
写真は、パンフレット。出演者プロフィール。プログラム。蝶々夫人の一場面。
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(2025/03/30)
亥子の会
3月28日午後3時、,滑川市中川原・パノラマレストラン光彩で、昭和22年{亥年生まれ}と昭和23年{子年生まれ}の有志で結成する第7回「亥子の会」が、スローガンを―みんな元気で 喜寿から米寿へ―を掲げ懇親会を開催しました。
前日の県内のお天気は28℃と夏日の暑さでしたが、当日は最高気温が12℃と小雨降る花冷えする寒さでした。
15名の参加者でしたが、大阪・京都の遠方より2名が来滑し花を添えてくれました。稲場大二君の進行で始まり、最初に私が挨拶し、昨年より10名ほど参加者が減ったが、毎年参加していた方が1名亡くなったこと。
また体調不調で今回参加できないが来年は是非参加するとという人が5名であることを話しました。
しかし、その反面、今回久し振りに2名の参加者もいることを紹介しました。また我々は健康問題が話題にでる年代になったことを自覚して、健康に留意しスローガンに掲げたように、みんな元気で取り敢えず、米寿まで長寿で長命な人生を楽しもうと話しました。
そのためにも物事を前向きに捉え今日の集いが楽しい思い出になるよう念じ挨拶としました。
また、大阪から馳せ参じてくれた関西滑川会会長の千先久矩君が、やはり同級生とは良いものである。再会するのを楽しみにしてきた。来年も是非続けて欲しいと話し、乾杯は中川勲君が行い和やかに懇親会に入りました。
懇親会直前に写した集合写真は、懇親会中に酒も飲まず、コンビニへUBSを持ち込み写真にして全員に配布してくれた稲場大二君に感謝しましたが、余りにもスピーディーな対応に驚きの声が上がっていました。
閉会の辞は近堂昭夫君の力強い言葉で2時間30分余りの宴に幕を閉じました。
別れを惜しみ、握手をもつて再会を約し、散会となりました。
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(2025/03/29)
知人・友人との懇談会
25日夕、友人と懇談会を2度行った。最初は、経産省OBで富山県出身者の間宮叔夫氏。都合で5時30分からお会いしました。
氏は石破首相と懇意なことから,請われて内閣官房参与の肩書で活躍中です。和服の似合う方で、今では知らない人は居ない位有名になっているそうです。それ故、悪いことは出来ないと高笑い。
じっくりと話ができないまま6時30分多忙な彼と別れ、別の部屋で別の知人と懇談会を開催。
メンバーは、かって経済産業省より県の商工労働部長などに出向し、県政進展に尽力された方々で、現役では藤木経産省経済産業政策局長を含め3名。
OBでは佐藤全国中小企業団体中央会専務理事含め2名、これに特別参加として、上田英俊衆議院議員と堂故茂参議院文教科学委員長に首都圏本部からと私と9名で懇談会を開きました。
全員、旧知な仲ゆえ話題も多岐にわたりましたが、やはり国会の動きが中心でした。少数与党の苦労やら、政治とカネ、高額療養費、10万円商品券、予算通過後には強力な物価対策を講じる」発言や、米国の25%のトランプ関税、そして関西万博など実に話題は豊富で時のたつのも忘れ、話に花が咲きました。
翌日は、本市出身の小善国交省総合政策統括審議官に訪ね、午後全弓連理事会に出席し帰宅しました。
写真は、和服姿の間宮参与と。藤木局長、上田衆議院議員、堂故参議院議員と共に。国交省で小善審議官と。
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(2025/03/28)
海舟記念館
3月25日{火}―26日{水}全弓連理事会出席のため上京の折、勝海舟記念館を訪ねた。山手線五反田駅で東急池上線乗り換え、洗足池駅下車徒歩6分位の所に記念館がある。
ご存知のように、明治元年{ 1868}幕府は鳥羽伏見の戦いで破れ、徳川慶喜は官軍との交渉の代表に勝を任じた。官軍の参謀西郷隆盛と会見するため官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴く。その際、通りかかった洗足池の深山の趣きある自然に感嘆し池畔の茶屋で休息したことが縁となり、、農学者津田仙{津田塾大学創始者・梅子の父}の仲立ちで土地を求めた。
勝は、赤坂氷川に家があったが、明治24年{1891}茅葺の農家風の別邸を建て自ら「洗足軒」と名付けました。ただ残念なことに戦後間もなく焼失した。
勝は、この地で次のような歌を詠んでいます。
池のもとに 月影清き今宵しも
うき世の塵の 跡だにもなし
勝は、明治32年{1899}1月21日77歳で亡くなりましたが、生前「洗足軒」の背後の丘に墓所を作り、遺言によりここに葬られました。
石塔には「海舟」とだけ刻まれ、徳川慶喜筆と伝えられている。当初は海舟一人の墓所でしたが、明治38年{1905}妻民子が死去し青山墓地に葬られたが、のちに改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。
それにしても、文政6年{1823}1月30日に生まれ、明治元年{1868}までの45年間は階級制度の厳しい封建社会に身を置き、明治元年から死去する明治32年{1899}1月21日まで31年間は富国強兵、近代国家建設に邁進する。
このように社会が一変する体験は、徳川慶喜も同様である。彼は、天保8年{1837}9月19日生まれで、明治元年までは、歴史の表舞台で、そして明治元年から死去する77歳の大正2年{1913}11月22日までの45年間は歴史の表舞台から消え隠遁生活を送る。
このように維新を境に、薩摩、長州、土佐、肥前の天下となる。しかし新政府を運営するには有為な人材が必要なため,かっての幕臣も登用する。勝もその一人で維新後参議兼海軍郷などを務めたのち、明治20年{1887}5月賞勲局より子爵に叙せられる。
この時、勝は、
今までは 並{なみ}の身{からだ}と思ひしが
五尺に足らぬ ししゃくなりとは
という嘲弄的な狂歌を吟じている。
しかし、勝は明治21年枢密院顧問官。明治22年12月勲一等瑞宝章を賜り、のち勲一等旭日大綬章を授けられ、正二位に叙せられた。
これに福沢諭吉が異を唱えた。明治25年{1897}1月末「瘦我慢の説」と題した草稿を送り返書を求めた。これは、この頃外務大臣を務め子爵となった榎本武揚にも向けられた。当初黙殺されたので、2月5日再び諭吉は督促状を出した。これが世に明るみになったのは、勝、亡き後、明治34年{1901}諭吉が主宰していた「時事新報」で公表されたことからその内容が判明した。
諭吉は、「かって幕臣であった勝が敵対した官軍つまり明治政府に仕え、名利をを貪っているとして勝を弾劾する。これが有名な「瘦我慢の説」である。
これに対し、勝は{中略・・・「行蔵我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存じ候、各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候{中略}・・・。」
つまり、批評は人の自由、行蔵は我に存すの意である。榎本はどの様に応えたかは不明である。もう一点有名な話は、勝は明治に入り座談会等で話したことが、海舟座談、氷川清話、海舟余波などとして残っている。
その中で、氷川清話の中の「古今の人物について」で、勝は坂本龍馬について「竜馬がかって俺に、「先生はしばしば西郷の人物を称せられるから拙者も行って会ってくるから添え書きくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには「なるほど西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く、もし馬鹿なら、大きな馬鹿で、利口なら、大きな利口だろう」と言ったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。」
激動の幕末維新を生き抜き、西郷と徳川の名誉回復に尽力し奇しくも徳川慶喜と同じ77歳の生涯であった。記念館を見学後、勝夫妻の墓所をお参りしたが、いまだに香華とお花が供えてあった。
勝の言葉に「清濁併せ吞んで、なお清波を漂わす、汝、海の如き男たれ」がある。政治には清濁があるとは思うが、余りにも濁が目立ちすぎる昨今の様な気がする。午後、皇居三の丸尚蔵館で―百花ひらく―花々をめぐる美―を鑑賞した。
写真は、記念館前。海舟夫妻の墓所。
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(2025/03/27)
高橋正樹氏叙勲祝賀会
星流れ 海に入りしや 蛍烏賊 山下徳樹
滑川のほたるいかミュ-ジアムでは3月20日からほたるいかの発光のショ-が始まるなど、ホタルイカ漁も最盛期に入ってきました。
そんな中、3月23日{日}前・高岡市長・高橋正樹氏の旭日中綬章受賞記念祝賀会が、高岡商工ビル2階「大ホール」で200人余の多数のご参加を得て、盛大に開催されました。会場では高橋氏の幼少時代から今日までの活躍がビデオで紹介されていました。
まず最初に発起人を代表して塩谷雄一高岡商工会議所会頭が挨拶。新田八朗知事、橘慶一郎内閣官房副長官・衆院議員.。堂故茂参議院文教科学委員長。角田悠紀高岡市長がそれぞれの立場で地方自治一筋に歩んでこられた功績を称える祝辞を述べられました。
次に風邪で欠席した3人のお孫さんからの可愛いビデオメッセージ披露され、会場は和やかな雰囲気に包まれました。次いで多数の祝電の中から、時間の関係で前・富山県知事石井隆一氏の電文のみ披露され、来賓紹介に移りました。
次に元・市秘書課職員で高橋氏が初登庁した際に出迎えた女性と親戚の女性から花束の贈呈がありました。ここで本人の謝辞があり、今日までの関係各位のご支援、ご指導のお陰での受章であることを力説された謝辞でありました。
尚、乾杯に入る前に、本日のメニューの「前菜」について料理長より説明がありました。
それによると高橋氏は総務省時代、熊本、宮崎、新潟各県に出向されました。その土地の一品を今回の「前菜」に活用していることを説明されましたので、配布されたカラーの「前菜」のメニューはイラスト入りで、奥様の説明書きがありますので、それをご紹介します。
前菜 ―旅路を越えて ふるさと回帰―
「赴任した土地と高岡の思い出を、前菜一皿に盛り込みました。その土地の名産,郷土料理は地域に溶け込む重要アイテムです。転勤した先々で、地元の方に郷土料理を教えてもらうのはステキな楽しみでした。それらは今や我が家の定番料理。富山は海、山の食材の宝庫です。高岡でも魅力的な定番料理がたくさん増えました。ちょっと旅気分で味わってくださいませ。
高橋陽子
と奥様が記しておられました。
内容は
①―宮崎の味わい―伝統のぬた芋
・・・・和えるときには角がとれてとろみが増します 宮崎の里芋で作る郷土料理です
②―熊本の恵み―赤牛ローストビーフ
・・・阿蘇の大草原でおいしい野草をたくさん食べて育つブランドて牛さっぱりとヘルシー
③―越後の香り―サーモンコンフィ
・・・青海苔クリーム添え・新潟名物の鮭わっぱをイメージ、青のりはわっぱに付き物
④―加賀前田の逸品―どじょう蒲焼き
・・・加賀藩名物、富山、石川のスタミナ源
⑤―松楓特製、桜鱒と昆布の押し寿司、いくらの彩り
・・・寿司と言えば富山、やっぱり鱒寿司でしょう、昆布を挟んで鱒寿司の新境地に挑戦しました
⑥―富山の春の贈り物―ホタルイカと菜の花の酒粕和え
・・・きゅうりの粕和えは高岡の夏の定番です、菜の花で春を告げる逸品に
⑦―黒豚の旨味たっぷり
・・・高岡風コロッケ 豆やひじきを入れてパワーアップ松楓のオリジナル
この説明の後、かって高橋氏の後援会長であった川村人志同商議所前会頭の乾杯の発声で宴に入りました。私も、いろんな祝賀会に出席しましたが、奥様の心のこもったおもてなしは初めてで、ほのぼのとした夫婦関係を表しているようで、思わず手を付けずそのまま持ち帰りたくなるような前菜でした。
料理の事ばかり書きましたが、高橋御夫妻のような、和気あいあいと和やかな雰囲気の素敵な祝賀会でした。
高橋氏は高岡高校から,東大法学部卒業後自治省に入省。新潟県副知事など歴任後本省に戻り、平成20年7月総務省大臣官房審議官で退官。
平成21年7月ー令和3年7月まで3期12年高岡市長を務められました。
この様なエリートですが、私のような者にも何ら偉ぶることもなく、親しくお付き合いを頂いていることは本当に有難いことです。
写真は、挨拶すると高橋氏。高橋夫妻と石澤義文氏。心のこもった前菜のイラスト。奥様の文章。
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(2025/03/24)
滑川・富山北部両校薬業科特別講演
頑なに 富山売薬 春の風邪 片桐久恵
3月3日{月}午前9時50分ー10時40分滑川高校薬業科1年生34名、3月10日{月}午前10時50分ー11時40分富山北部高校薬業科・くすり・バイオ科2年生78名に対し「富山のくすり」について話しました。
これは、後継者育成事業の一環として、富山県の重要な産業である「富山のくすり」について理解を深め、認識を新たにしてもらう意味から製薬メーカーと配置側とが1年交代で行っているものです。
最初に、令和5年{1月ー12月}の医薬品国内生産金額は10兆332億円、この内、富山県内での生産額は約6221億1千万円で全国4位。
また配置用医薬品の総生産額は令和元年調査から集計方法が見直されたため実態の把握が困難になっているが、過去の実績からして、全国の配置薬の生産額の約50%が富山県で生産され、現在全国で約1万人の配置員がいること。
そして高校に薬業科があるのも富山県ぐらいである事を話し、だから、「富山」と言えば「くすり」、「くすり」と言えば「富山」と言われる所以を説明し、本題に入り、概ね次の点について話しました。
①富山売薬の歴史
富山売薬発祥の起源とされる元禄3年{1690}「2代富山藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」。備前の医師・万代常閑と「反魂丹」。薬種商・松井屋源右衛門。諸国への行商を広めた八重埼屋源六。「先用後利」の商法と立山山岳信仰配札檀那廻り。
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故受け入れられたか。
特に薩摩藩と昆布、北前船。
③幕末、日本三大寺小屋と言われた富山西3番町にあった寺小屋「小西塾」の教育内容。
④明治に入り
漢方薬排斥、洋薬礼讃、売薬取締規則や売薬印紙税の導入など苦難の時代。
⑤明治26年富山市の補助金を基に多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」を設立。
明治30年富山市へ移管し「富山市立富山薬学校」となり、これが富山北部高校薬業科の前身であり、明治40年県立に移管され、薬剤師など製薬メーカーへの人の育成そして売薬行商人養成機関としての位置付けを確保していく。明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての薬学専門学校となる。これが、昭和24年富山学薬学部となった。この間昭和10年滑川町立薬学校設立。
これが現在の滑川高校薬業科であり、それらの歴史。
⑥明治以降、薬業人が金融機関や電力会社などを設立し、富山県の近代化や産業の育成に大きな貢献をした事。
これらのことを説明し、この素地があるから今日の「富山のくすり」があることを話しました。
また、薬局やドラックストアが普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか。それは薬箱が家の中にあって24時間営業し、必要な時に何時でも使える便利さ。しかも使用しなければ代金の支払いは発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に利を後にする売薬独特の商法と同時に、①顧客との信用・信頼 ②良い商品 ③市場調査 ④記帳と経理 {例えば掛場帳}の重要性を売薬さんたちは300年も前から身につけていたことです。
詳細は紙面の関係上割愛しますが、いづれにしても、真面目にやればこれほど良い仕事はない。数年前北部高校から、配置薬業に従事した先輩もいたし、在学中に登録販売者の資格も取得した人もいた。
特に、女性は人当たりがよく配置販売に向いており、最近増加していることも話し配置薬業のPRをしてきました。
ただ、残念なことは滑川高校薬業科34名に「売薬さん」「置きくすり」を知っているか。の私の質問に全員知らない。滑川在住者は4人でした。
また、北部高校78名の生徒に同じ質問をしたところ17-18名でした。せめて薬業科ですから授業の中で富山の売薬に関して、多少触れてほしいものです。また、県内でのPR不足を改めて感じました。
写真は講義中の風景。


(2025/03/11)
福寿大学市民教養講座
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど・・・・早春賦より
3月7日は早春賦の歌を思い出すような肌寒い朝でしたが、我が家の小さな裏庭には「ふきのとう」が芽吹き「三寒四温」確実に春の足音が聞こえてくる季節の中、7日午後1時30分より3時まで滑川市民交流プラザで「絶望から生まれた希望」と題し、講演会が滑川市中央公民館主催で開催されました。今回の講師は遠方広島市よりお迎えした加藤りつこさんです。
平成7年{1995}1月17日 午前5時46分 M7,6 震度7の大地震が発生しました。
ご存知、阪神淡路大震災です。この震災で6434名の多数の犠牲者が出ました。その中に、神戸大学在学中の39人の学生も尊い命を落としました。その39名の追悼特集を2月1日付け読売新聞全国版で「地震につぶされた夢」と題し、顔写真と共に関係者のコメントを添え報道した。
卒業間近の4年生の中で、銀行員や新聞社にすでに就職が内定していた人もいれば、祖国を担う留学生もいた。そして、今回の講師である加藤さんの一人息子の貴光君もいた。読売新聞の貴光君に関する記事は次の通りである。
「法学部2年加藤貴光さん{21}{広島市} は西宮市のマンションで圧死した。同居していた単身赴任の父宗良さんはたまたま実家に帰っていて無事だった。国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。
荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んでいって手伝うようなやさしい子でした」と母律子さん。大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙を忍ばせたという。母はそれをいつも免許証入れにはさんでいた。遺体安置所で、その手紙を読み返した母は、涙を抑えることができなかった。」とある。
先般、滑川高校の卒業生192名に手紙の全文を生徒に聞かせ、それをブログで発信しその中に手紙の全文を掲載しましたが、あえてもう1度記します。
「親愛なる母上様」
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく温かく、大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私は、この翼で大空へ翔び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい「旅」をすることになるでしょう。疲れてやすむこともあり、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。
しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の限り翔び続けます。
こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。住む所は遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。
決してあなたはひとりではないですから・・・・。
それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。
最後にあなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。
翼のはえた「うし」より
これが貴光君の手紙の全文である。
私はこの文を読んだ時、思わず胸の熱くなる思いを感じ、すぐこの記事をコピーした。私が19歳の時、果たしてこの様な心境になっていただろうか。「人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること、肉親や他人への感謝の気持ち、将来への確固たる志」など正直言って恥ずかしながら無かったと思う。
しかし、この時を機会に、このことの大切さを改めて知らされた思いでした。同時にこの様な素直で立派な青年に育てられた両親の育て方にも関心を持ったものです。その後、私が公職に身を置く立場になった平成14年から8年間、成人式で貴光君の手紙を女性の司会者に朗読して頂き、成人者と同年代の貴光君の思いと、前述した私の19歳の時の思いとを比較しながら、20歳の成人者にこの手紙から、「何かを学んでほしい」と話しました。
会場の女性からすすり泣きが聞こえたのを、今でも憶えています。その後、1月17日が来ると、ふと貴光君を思い出しますが、「去る者、日々に疎し」徐々に記憶の枠外に行きつつあった令和5年{2023}1月21日午前4時前たまたまトイレに起きた時、何気なくNHKラジオ深夜放送にスイッチを入れ4時から5分間のニュースのあと、何と貴光君の母りつこさんが、我が子を亡くし、未来への道を見失った時から、希望を再び取り戻すまでを50分余りにわたりインタビューされた放送を聞いたのです。
お会いしたことも、話をしたこともない加藤さんが私の眼前に現れたのです。その番組を制作したのはNHK神戸放送局とのことでしたから、朝8時30分NTT104番号案内で聞き、早速神戸放送局へ電話をして加藤さんの住所等聞きましたが個人情報保護の立場から教えてもらえませんでした。当然です。
そこで私の意を加藤さんに伝えてもらうことで了としました。その後、加藤さんからお電話があり、私が始めて手紙を読んでからお会いしたことも、話したこともない私の点と加藤さんという点が28年の歳月を得て、線となって結ばれた瞬間でした。
その線上で「著者・加藤りつこ」の「希望ふたたび」{ 阪神淡路大震災で逝った息子のただ1通の手紙から}を頂きました。その中に貴光君の誕生から幼児期。小学校から中学校。高校から大学。慟哭の始まり・・・阪神淡路大震災。絶望から希望へ。など多岐にわたる内容の中に、貴光君の誕生から大学まで、年代別の育児方針、子育ての環境整備、成長していく過程に於ける、親子の間の取り方等詳細に綴られており、お会いしたことはありませんでしたが好青年として成長された訳が解るような気がしました。
そんなことで、水野滑川市長や上田教育長に話をしたところ、震災から30年の節目の今回の講演会になりました。
点と点が28年の歳月を得て線になり、その線が2年延長され、今回80名ほどの参加者の面となったと思います。そんなことから開演前に私から一言その経緯について話しました。1時間余りの講演でしたが、会場では目頭を抑える人や、終了後何人もの人から主催者の方に「良かった」と声を掛けられたと聞き、中に入った私も安堵するやら、色々教えられる講演でした。
それにしても、もしあの時トイレに立たなかったら、ラジオのスイッチを入れなかったら、と思うと縁の不思議さを感じます。
写真は、①平成7年2月1日の読売新聞 ②当日のパンプレット ③水野市長を市長室へ表敬訪問、上田教育長同席 ④加藤りつこ著・希望ふたたび ⑤講演の加藤さん。





(2025/03/08)
第77回滑川高校卒業式
網しぼり きらめきつくす 蛍烏賊 高島学人
2月には2度の寒波に見舞われた県内も、3月1日は県内各地で3月下旬から4月中旬並みの暖かさとなり、日中の最高気温は富山で15,4度となった。
まさに陽光燦燦として大地を覆い、青空広がる中、残雪輝く立山連峰を眺めると、やっぱり富山はいいなー、改めてそう思う。
そして3月1日は待ちに待った富山湾に春を告げるホタルイカ漁解禁日である。昨年の初日は106㎏で豊漁の年であったが、今年の水揚げ量18㎏と少なかった。しかし、海水温が上昇すれば漁獲は増える見込みで、今後に期待したい。
さて、その3月1日滑川高校 {校長・金田幸徳}第77回卒業式が多数の保護者出席のもと、前日の同窓会入会式に次いで挙行された。
式は有賀副校長の開式の辞で始まり、全員で国歌「君が代」斉唱、次いで金田校長より、普通科77名、薬業科38名、商業科40名、海洋科37名、計192名に卒業証書が授与された。
引き続き校長は式辞の中で{要旨}次の3点が述べられました。
①進んで学ぶ姿勢。
今後は教えてもらうには限界がある。自ら目標を設定し学ぶことの重要性。
②しなやかな感性。
不安、困難、挑戦、失敗、挫折はつきもの。
そこから立ち直る。感謝、共感心、拍手、讃える心を持つ。
③人を支える存在。
人生の主人公は一人一人。自分を大きくする節目節目の選択を任せてはいけない。
一人一人に良さがある。自分の可能性を信じ、他人に愛情を注ぐ大切さ
を話されました。
最後に、スティーブ・ジョブズの言葉を引用し「未来を見て 点を結ぶことは 出来ない 過去を振り返って点を結ぶだけだ だからいつか どうにかして 点が結ばれると信じなければならない」
やはり、教育者としてのお祝いと激励の良い式辞だったと思います。
祝電披露のあと「蛍の光」がテープで流れる中、在校生代表が進みて送辞「1年生に入学したときは先輩の姿は眩しく映った。その後、部活、作品展、生徒会活動、地域との交流イベントなど、多くの指導に対し感謝の言葉や、先輩が築いた良き伝統を更に発展させる決意を述べた」
これに対し、「仰げば尊し」がテープで流れる中、答辞として卒業生代表がステージ上の校長に向かって、かけがえのない3年間を振り返りった。
遠足、体育大会、様々な活動を通じ他の人とかかわることに慣れてきた。2年生の時、2泊3日の研修旅行の思い出や重要な部活動などは、中心的な役割を先輩から引き継ぎ、期待と不安で一杯であったが、多くの学校行事を終え、その達成感に浸った時、やはり、適切なご指導をいただいた先生への感謝の言葉であった。
校歌斉唱のあと、卒業生は昨年同様「RADWIMPS」の「正解」のメロディーと大きな拍手に送られて退場し、厳粛な中滞りなく終了した。
それにしても、「RADWIMPS」も「正解」の曲も私は知りません。また、卒業生の女子90名の内名前に「子」が付いている人は2名でした。私の年齢と時の流れを感じざるを得ません。
又、昨年も申し上げましたが、国歌「君が代」や「校歌」はピアノ伴奏で全員が斉唱しますが、「蛍の光」や「仰げば尊し」はテープで流すから、ほとんどの生徒は歌わない。しかし今年は僅かではあったが口ずさむ生徒がいた。昨年よりは前進である。
私は、2曲ともピアノ伴奏で、「蛍の光」は在校生が「仰げば尊し」は卒業生が全員で斉唱すべきと思う。両曲の歌詞が素晴らしい。「蛍の光 窓の雪」古代中国の「晋」の学者「車胤」が 貧しくて灯油が買えないため蛍を集めてその光で書を読んだ という故事からきている。
正に校歌2題目の歌詞「思え車胤を 青春の」である。
また、「仰げば尊し わが師の恩」は卒業生代表の答辞の中での師への感謝の言葉と一致する。これを全員が斉唱することで一人一人の胸に刻み込まれるのではないだろうか。
もう一つ、昨年も書いたが昨年の調査では、県内の県立高校39校、私立高校10校がある。この中で「蛍の光」を歌っているのは、本校含め僅か6校である。「仰げば尊し」は県立では本校だけで、私立では1校である。以前歌っていた学校もコロナ禍で歌えなくなり、そのまま今日に至っているという。
このままでは、この2曲は消えゆくのではなかろうか。高校は、教え育てる教育の場である。自らの意志で学び習うのが学習の場である。「伝承なきところ モラルなし」という言葉がある。一度途絶えたら中々元には戻らないことを思うと、滑川高校の良き伝統としてこの2曲は歌い続けて欲しいものである。
また、卒業証書授与の時、担任の先生が生徒一人一人の名前を読み上げるが、全員座ったまま聞いているだけである。証書を代表して貰う方のみ返事をするのである。私は、返事をして起立をし、直ちに座る。それ位あっても良いと思う。
これらのことは、私個人の意見として、学校側には、伝えました。
いづれにしても、過ぎし日の学生時代を懐かしみ、卒業生に幸多きことを念じ校舎を後にしました。
写真は、式辞と卒業証書授与する金田校長。




(2025/03/01)
令和6年度同窓会入会式
2月28日 {金}県立滑川高校同窓会入会式が行われた。本校の場合は、卒業と同時に入会になるので卒業式の前日に式が行われる。
今年は192名入会であったが、現在会員は3万7千を有する県下でも最大規模を誇り、各界各層に有為な人材を輩出し各分野において活躍されていることは嬉しい限りです。誰にでも生まれ育った「故郷」があるように、青春のひと時を過ごした「母校」がある。
中でも青春の中心舞台は多感な学生生活であり、それを回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し哀歓彷彿として思い浮かぶ。固い友情に結ばれた出会いと別れという青春の讃歌が鮮やかに蘇る。しかし、学生諸君には学生時代の思い出は残っても、同窓会への意識は稀薄であろう。
しからば、同窓会とは何か。それは日頃同窓会に関心を示さない人でも、例えば村上英士郎君が昨年パリ五輪にウエイトリフティング選手として出場した時、多くの卒業生は素直にそれを喜び、友人、知人に誇らしげに話す。
それが同窓会であり、その時母校の存在を意識する。県外在住の県人が帰省し、青空の中に広がる立山連峰の雄姿を見た時、富山県人であることを再認識するという。
それが「故郷」の存在なんだろう。
このように「故郷」や「母校」の存在は人それぞれの心の拠り所として生き続けているものと思う。と話しました。
もう一点、今年は阪神淡路大震災から、30年の節目の年である。平成7年{1995}1月17日午前5時46分、M7,3、の巨大地震が発生し、死者6432名の大惨事となった。
この死者の中に神戸大学の学生39名がいた。その39名の顔写真とコメントをつけ追悼特集が2月1日付読売新聞全国版に掲載された。4年生で新聞社や銀行など既に就職が内定していた人、あるいは祖国の発展を願い留学生として来ていた人等の中に広島市出身で法学部2年生の加藤貴光君がいた。
新聞記事では「彼は西宮市のマンションで圧死、将来国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んで行って手伝うような優しい子した」と母律子さん。大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙を忍ばせたという。{中略}。その全文を生徒に聞かせてあげました。
全文をここに記します。
親愛なる母上様
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく、温かく、大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。そして今、私は、この翼で大空へ翔び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい旅をすることになるでしょう。疲れて休むこともあり、、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。
しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。
住む所は遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。決してあなたは、ひとりではないのですから・・・・。
それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。
最後にあなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。
翼のはえた「うし」より
この全文を生徒に聞かせて「生徒諸君と同年代の19歳の青年が将来に大きな夢を持ちながら、20歳の短い人生を終えた。私自身19歳の時、人を愛すること、自分戒めること、人に愛されることや、親への感謝や他人へのいたわりの心を持っただろうか。恥ずかしながら無かったと思う。この手紙を読んだ時、改めて命の尊さ、親や他者への感謝、そして人を愛することや人生とは?を考えるきっかけを与えてくれた」
と192名の生徒諸君に話し、加藤貴光君の手紙から何かを学んでほしいと話しました。
最後に生涯学ぶことの大切さを訴え、幕末の儒学者佐藤一斎の言葉で激励と入会歓迎の挨拶としました。
「少にして学べば壮にして為す 壮にして学べば老にして衰えず 老にして学べば死して朽ちず」
写真は、挨拶と代表者に記念品贈呈。


(2025/02/28)
乃木希典旧邸宅と乃木神社
2月19日午前中時間があったので、地下鉄千代田線乃木坂駅横の乃木旧邸宅と乃木神社を参拝しました。
旧乃木邸は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われ、明治35{1902}年に新築されたものです。乃木夫妻が大正元年{1912}9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って、日本人最後と言われる殉死するまでここに住んでいた。
邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られているという。
旧邸宅と馬小屋は、乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在港区が管理している。尚、馬小屋は旅順陥落後、敵将ステッセル将軍から贈られた名馬壽号の厩舎であったという。また、邸宅前には、水師営にあったナツメの木の孫が植樹されていた。
乃木神社はその名の通り、乃木将軍と静子夫人を祭神として祀っている。また入場無料の小さな資料館があり、しばし見学した。昨年9月下関の乃木神社や資料館, 夫妻や名馬壽号の銅像、ナツメの木などは9月のブログで書いたが、それを思い出し、日露戦争と太平洋戦争とを比較しながら戦争の引き際、日露戦争で得た教訓と財産。それを太平洋戦争ですべて失った。
時あたかも今年は日露戦争から120年、昭和になって100年、戦後80年の節目の年である。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスの戦闘を見ても、戦争は権力者によって始められ、その被害は子供や何の罪もない庶民である。やっぱり戦争はやるべきでない。万物の霊長たる人類の最も愚かな行為が戦争である。そう思い乃木神社を後にした。
午後、全弓連理事会に出席し、19時過ぎ無事帰宅した。18日は1万8千歩余り、19日1万2千歩余り、我ながら良く歩いたと思う。
写真は、旧乃木邸と左手ナツメの木。乃木神社。
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(2025/02/20)
経済産業省・総務省・文科省友人
官邸の後、経産省に藤木俊光経済産業政策局長、そのあと総務省に新田一郎審議官を訪ねた。藤木氏は富山県商工労働部長、新田氏は富山県経営管理部長などを務められた方で、その時からの知人です。お二人共、橘・佐藤氏同様国会開会中にもかかわらず時間を割いて頂き感謝です。
それにしても、局長や審議官ともなると個室が与えられ、10人程の会議ができるテーブルが配置してあり、応接セットがあり、専属の秘書がいるなど課長とは雲泥の差です。しかも感心したのは、約束した時間の2時間程前に秘書の方から私のケータイに会議が10分ずれたため、そのようにお越しください。との電話があることです。
私の感覚でいえば10分程度なら、私が行った時その旨話されれば良いと思うのだが、さすがと感心しました。お二人とは与党過半数割れした国会運営などの話しにも及びました。
写真は、官邸での反省から座って撮りました。藤木局長。新田審議官。
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文科省友人との懇談会
18日夕、文科省友人と懇談会を行いました。これは平成16年から滑川市が文科省の25歳前後の研修生を2週間から3週間ほど、昨年まで21年間受け入れていました。しかし、新型コロナで3年間、東日本大震災で1年派遣が中止になりましたが、今日まで引き継がれ計17名を受け入れました。
それが15年ほど前「文科省ナカヤ会」を作ったから私が上京の折、集まろうとなり、年に1-2回懇談会を開いています。
平成16年初めて受け入れた1期生は現在文科省より山梨県教育長に出向している人や、スポーツ庁の課長或は各都道府県の教育委員会の管理職として出向している人、パリへ赴任している人など多彩な顔ぶれの集まりです。
それ故、全員が揃うことはむずかしいですが、常時8人前後集まり当日は国会開会中で答弁書作成準備などで突然の欠席者が出ましたが、和気あいあいの集いでした。
しかし、この青年たちが明日の文部行政を背負っていくことを思うと、頼もしくもあり、心もとない様に感じたりもする。人生のささやかな先輩として「官僚としての矜持を忘るるなかれ」かって遣隋使や遣唐使は、命がけで荒海を渡り隋や唐の律令制度や仏教や新たな文化を吸収し、「国つくり」に務めた彼等の「志」に思いを馳、公務員になった時の初心を忘れてはならない。と激励しました。
各人の近況を語り合いながら話しに花を咲かせました。また、各省庁にもこのような制度があるが、この様に一堂に会する機会があるのは多分この会だけだろう。とのことでした。名残を惜しみつつ再会を約し散会しました。
写真は、メンバーとの懇談会
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(2025/02/19)
総理官邸
皇居三の丸尚蔵館鑑賞の後、総理官邸に内閣官房副長官・衆議院議員橘慶一郎氏と同じく佐藤文俊氏をそれぞれの部屋へ訪ねました。副長官は衆参両院から各1名、事務方から1名計3名です。佐藤氏は、昭和50年代中沖知事当時に自治省から富山県財政課長に出向されて、最後は総務省事務次官を務められた方で、私とは総務省時代からの付き合いです。
3人の副長官のうち2名が富山県関係者と聞いただけで、なんとなく心強く、嬉しく感じます。昨年の石破政権誕生と共に就任されたのですが、橘氏は、就任後、石破首相の南米ペルー、最近の訪米でのトランプ大統領との会談に同行されるなど多忙を極めておられます。しかも国会開会中です。そんな中、面会の時間を割いて頂いたのにはただただ恐縮、感謝しかありません。
以前官房副長官は、安倍政権の野上浩太郎氏、小泉政権の長勢甚遠氏と事務方で大門出身の二橋正弘氏の時も訪問しましたが、与党過半数割れの政権運営ですから苦労もひとしをのものがあろうと思います。
しかし、日本国の政治の中枢にいることを実感し、政治家冥利に尽きると思うし、必ず重責を全うされることと思います。
それにしても、官邸のセキュリティーは日本一厳しいと改めて感じました。議員会館入館時には、金属探知機が反応しなかったネクタイピンが、官邸の探知機では反応するのである。さすがです。最後に国会で新年度の政府予算案が通過すれば、ゆっくり話の機会を持とうと別れました。
又、橘、佐藤両氏の背の高いのには驚きました。帰宅後写真を見て大人と子供の様な姿には啞然としました.両氏共180㎝以上はあると思います。
![250218161006051[1]](http://nakayakazuhiro.jp/4rr4Dd3g-nakaya/wp-content/uploads/2025/02/2502181610060511-759x1024.jpg)
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(2025/02/19)
「瑞祥のかたち」
降りつもる 深雪に耐えて色あせぬ
松ぞ雄々しき 人もかくあれ (昭和天皇・昭和21年歌会始め)
2月18日、今冬2度目の寒波襲来の天気予報が出ている朝、一面銀世界の滑川を後にし、全弓連理事会出席のため上京した。さすが日本は狭いといっても広い。東京は快晴である。
さて、今回も皇居三の丸尚蔵館の企画展「吉祥のかたち」を鑑賞した。
尚蔵館には約2万点の作品が収蔵されており、その殆どが名品ばかりで、年数回企画展として公開されている。今回は1月4日―3月2日まで表題の企画展で、「新しい年の到来を喜び、人生の節目に幸福を願う気持ちは、古くからさまざまな造形に残されてきました。
中でも古代中国において不老不死の仙人が住むと考えられた蓬莱山は日本でも吉祥図として描かれ、長寿を象徴する鶴と亀が添えられた縁起物としても表されました。
やがて理想郷としての蓬莱山への憧れは、霊峰富士の姿に重ねられました。又、鳳凰は、優れた天子が世に現れる兆しとして古代中国で尊ばれた伝説の鳥です。
古くより鳳凰は高貴さの象徴として絵画や工芸に取り込まれ、皇室ゆかりの品々には数多く登場します。{瑞祥のかたち・図録より抜粋}
今回46点展示してありましたが、3点ご紹介します。
①日出処・日本 {234,3×448、6} 横山大観 {1868–1958}作
昭和15年に開催された「紀元二千六百年奉祝芸術展覧会」の出品作品です。
初代神武天皇の即位から2600年を記念する一大事業として企画された同展に出品するため、渾身の力をこめて製作したものです。生涯に二千点近い富士山の絵を描いたとされる大観ですが、その中でも最大級の作品で、出品後,大観本人の希望により昭和天皇へ献上されたものです。
本作は朝陽輝く霊峰の堂々たる姿を描いたものです。大観には富士山を描く際のこだわりがあり、江戸時代の大噴火でできた宝永山は決して描きませんでした。大観にとって日本の国土を象徴する富士山は、最も理想化された姿・形でこそ描かれる必要があったからです。
②国宝・動植綵絵・老松白鳳図 {141,8×79,7} 若冲{1716–1800}
松にとまった一羽の真っ白な鳳凰を描き、片足をあげて翼を広げたポーズで、うねるように流動する飾り羽などが、画面にダイナミックな動きを与え、細かく重ねられた羽毛の白い線が、神々しさを加えています。明治22年相国寺から献上。
③宝船「長崎丸」高さ・90・幅・100 奥行・59 台・木・蒔絵一点 江崎栄造 {1878ー-1965}
大正5年11月に大正天皇が福岡県下を行幸の折、長崎県から献上された鼈甲細工の宝船「長崎丸」。日輪に鶴が描かれた帆に風をはらみ、大海原を進むこの宝船には、農産物や水産加工物など、長崎県の重要な物産27種が積載されています。
作者の江崎栄造{1887–1965}は宝永6年から続いた鼈甲細工の製造販売業の老舗の6代目で皇室への献上品も複数手がけました。
①②③の解説はいづれも図録より抜粋
いづれにしても、二万点にも及ぶ名品が東京大空襲の難からも逃れ、今日まで保管されて来たことに驚きます。



(2025/02/18)
抱山社富山支部新年のつどい
1月13日午後12時より、魚津市ホテル・グランミラージュで標記のつどいが開催されました。
昨年は能登半島地震で、それ以前はコロナのため実に5年ぶりの開催となりました。
開会に先立ちて、能登半島地震と9月の豪雨災害からの復旧復興を願い「愛、希望, 絆、祈りを込めて」―学びの森から音楽をお届け―と題し、ピアノ・柏原友美さん、トロンボーン・新山久志さんによる
①早春賦
②G線上のマリア
③川の流れのように
の3曲をトロンボーンの柔らかい音色に乗せて演奏されると会場から大きな拍手とともに、アンコールの声がかかり、希望を持って前に進むことを願い、「上を向いて歩こう」を演奏されました。従来の新年のつどいにはなかった企画であり、新鮮さを感じました。
その後、経沢菁汀さんの司会で会が始まり、阿波加蒼岳支部長は、来賓の出席者に謝意を表したあと年頭の挨拶があり、今年は抱山社展は60回を迎えるが、新年のつどいはそれより前から行われており、歴史ある「つどい」である事を述べられる中、抱山社会長の大平匡昭さんがやむを得ぬ事情により欠席され、皆様によろしくとの伝言を伝えられました。
また、毎年8月県民会館で行われていた毎日書道展は諸般の事情で昨年が最後の34回となった事。しかし、情報等は、今まで通り北日本新聞には掲載されることなどが話されました。そして、創玄展「60年の歩み」の記念誌から「創玄書道会のすがた」を引用して、「書は芸術であるからには高度の技法が要求されるのは当然であるが、まずその書の品格が高尚でなければならない。
品格とは一人間全体としての価値の高さを言うのです。人間としての深さ、高さ、大きさを希っているのです。」と述べ、抱山社会員も、もっともっと研鑽し、創玄書道会の姿に近づくよう努力しょうと呼びかけられました。
来賓挨拶は、水野滑川市長、上田滑川市教育長がそれぞれの立場で、乾杯は岩田新川文化ホール館長が行い、和やかな雰囲気で懇親会に入りました。
尚、魚津市長は体調不調のため欠席でした。また、懇親会の中で昨年一年間の各書展での入賞者の紹介とそれぞれひと言コメントがありました。
私は、幼稚園時代、小学生時代数年間本会の創始者である大平山濤先生に書を教えて頂いたご縁で、そんな器でもありませんが抱山社富山支部の顧問を努めています。
また、阿波加支部長は、滑川市書道連盟や県書道連盟の支部長も務められ、富山県美術連盟前会長でもありました。滑川高校同窓生である関係から、一昨年滑川高校創立110周年記念誌の題字も揮毫して貰いました。
写真は、柏原さんのピアノと新山さんのトロンボーン演奏。阿波加支部長挨拶。


(2025/01/13)
水橋薬業会講演
1月8日午後2時より、富山市水橋会館で水橋薬業会{会長・菊地徳男}と富山市北商工会薬業部会{会長・森田清秋}の合同役員会が開催された。そして、3時から私に講演依頼があり出席した。
2時開会。最初に出席者全員が会場に設営された祭壇の前に整列し、祭壇に掲げられた神農像の掛け軸に向かって、2礼2拍手1礼で商売繫盛を祈願しました。
次いで、全員の記念写真を撮影したあと、菊池会長が神農像の掛け軸の由来や水橋の先人が樺太売薬を開拓した事などを含め挨拶。
次いで、来賓の押田富山市議が挨拶に立ち、父が売薬をしていた当時の思い出話や、現在自宅には常備薬を含め薬がないことの不便さから、置き薬の必要性を話されました。
また、この機会を通し市政報告会を行い、水橋出身の唯一の議員として薬業はもとより水橋発展の為尽力する旨を話し、今年4月の市議選への支援をお願いされました。これを受け,菊地会長からも出席者に対し支援の要請がありました。
次いで、私にも指名がありましたが、後程講演があるので、簡単にしましたが、押田市議には滑川高校同窓会副会長を努めて頂いていることから私からも支援をお願いしました。
その後、菊地会長から業界の現状などと合わせ、当日の議事が2時間50分終了し、3時から私の話しに入りました。
実は、講演依頼を受けた時、テーマと講演時間をお聞きしましたが、何んでもいい。これ程やりずらいことはない。そこで、当日講演内容を、「政治」「薬業」「雑感」の3っと時間を40分、50分、60分の3通りのくじを代表に引いてもらい、その結果、「雑感アラカルト」と50分となりました。
雑感ですから、最初に地震の歴史や異常気象、高齢社会。衆議院選挙後の政治状況。これに薬業界の諸問題等を話しました。
特に力説したのが、富士フイルムホールディングスkkについてです。実はこの会社の代表取締役社長CEOは富山市出身で1959年生まれの後藤禎一氏です。2021年から現職です。富士フイルムは2000年以降、カメラのデジタル化に伴い、本業だった写真フイルム事業は急速に縮小したが培ってきた技術を発展させ、事業構造の転換に成功。
現在は「ヘルスケア」「エレクトロニクス」「ビジネスイノベーション」「イメージング」の四っの事業領域でグローバル展開し、世界272社、従業員7万2千を擁している。2008年この傘下に入ったのが富山化学である。
このヘルスケア領域の中核企業となり、新薬メーカーとして長年感染症治療薬の研究と取り組んできたその知見と品質管理のノウハウを生かし、力を注いでいるのが、バイオ医薬品開発・製造受託事業だ。現在、富山第二工場では、600億円をかけ拠点整備事業を進めている。国内での大規模製造拠点は初めてである。後藤社長は「プロジェクトを成功させねばならない。パンデミック時には、ワクチン製造を優先的に行う施設となる。
日本を含むアジアの人々の健康に貢献していきたい」と語っておられる。この方が富山市出身である。社会の変化を敏感に捉え、先を見据え対応する。本業のフイルム事業からフイルムで培ってきた技術を発展させ構造転換に成功した好例であり、これと対照的なのはコダック社である。私はこの様な話をして、配置業界も300年の歴史と伝統、先用後利の精神だけではこの先発展を続けることは困難でなかろうか。
薬業界も一度後藤社長を招き、講演会を開催してはどうか。学ぶべき点が数多くあると思うが・・・・こんな話をしました。話し終えて感じたことは、やはり1時間程度であったらテーマを一つに絞って話したほうが良かったと思う。
1時間程度の中で、あれもこれもと欲張って話すと、どれも中途半端になるように思った。これが反省点であり、多少迷惑をお掛けしたような気がした。
それにしても、神農祭や歳旦祭も地域によってお供え物も違うことも分かった。
かって売薬さんの家では、1月8日には床の間に神農像の掛け軸を掲げ、その下に懸場帳を置き、お鏡を添え商売繫盛を祈願したものです。我が家ではまだ続いていますが、そんな風景も消えつつあることは淋しい限りです。
写真は、会場に設けられた祭壇。記念写真.講演風景。



(2025/01/09)
令和7年薬神神社新年歳旦祭
頑なに 富山売薬 春の風邪 片桐久恵
1月8日午前9時、新年恒例の薬神神社歳旦祭{主催.薬神神社奉賛会・会長石倉雅俊}がみぞれ混じりの肌寒い中,旦尾宮司のもと厳粛な中、滞りなく執り行われました。当日は昨年同様荒天の為、社務所の中から神社を遥拝する形で行われました。
旦尾宮司の祝詞奏上のあと顧問の私の玉串奉奠に続いて、薬業関係者、来賓の市長代理・黒川市産業民生部長、竹原市議会議長、大門県議会議員、杉田商工会議所専務理事、加積雪島神社総代など約30名が順次行い1年間の商売繫盛を祈願しました。
冒頭、本来なら石倉会長が挨拶すべきでところ、昨日石倉会長より電話があり、体調不調で出席できず顧問の私に代わって挨拶をお願いされた旨を話、挨拶をしました。
まず、昨年の元旦に起きた能登半島地震、9月には追い打ちをかけるような豪雨災害から異常気象。円安による輸出産業の好調さが賃上げに繋がったものの、その恩恵は一部の上場企業に限られた反面、円安は輸入に頼るガソリン代、ガス代、電気料金などのエネルギー料金が軒並み値上がりし、加えて日常生活商品も連日値上げされるなど、物価高に苦しんだ1年だった。
これらのことに具体的な対策を打ち出せなかった事や、政治とカネの問題で衆議院選挙で連立政権が過半数を割り、石破政権は綱渡りの政権運営を余儀なくされている中、薬業界の一年を振り返る話をしました。
我が業界も残念ながら明るい話題が少ない年でしたが、今年の干支「乙巳」{きのとみ}の「乙」は陰陽五行説では、木の影のエネルギーを表し、植物が成長し広がっていくような意味合いがあり、「巳」は蛇を表し、古来より豊穣や金運を司る神様として祀られることもあり、右往左往しながら脱皮し、成長してゆく。蛇の夢を見ると吉兆とされたり、脱皮した抜け殻を財布に入れておくと金運が上がり、成長と結実の時期と言われる。
当たるも八卦当たらぬも八卦であるが、座っていては運は来ない。やはり努力することである。そのためにも「一年の計は元旦にあり」目標を持つことの重要性を話し激励しました。
来賓の、黒川部長、竹原市議会議長、大門県議からもそれぞれの立場でお祝いと、業界を支援する言葉がありました。
社務所からの遥拝は天気の悪いのを嘆くより、これによって神社と横にある禅宗の独勝寺を同時に遥拝出来、これが本当の神仏のご加護である。こう考えるのが前向きな考えである。と終了後、皆さんに話したところ大笑いになった。
写真は、当日の薬神神社.玉串奉奠と挨拶をする私。



(2025/01/08)
弓道稽古始め
梓弓 春{張る}立つ今朝の心もて
年のひととせ 過ぐしてしかる 加茂すえたか
1月5日恒例の弓道 剣道 柔道 空手の四武道新春稽古始めが、市総合体育館剣道場で合同開会式が行われました。水野市長を含め3人の来賓挨拶のあと、今年の演武は空手連盟が担当し、形 組み手 板割り、などが披露されました。
その後、各団体はそれぞれの会場に分かれて行われました。私が所属する弓道会{会長・山岸光隆6段教士}は、体育館内にある弓道場「澄心館」で、高校・一般50名ほどの多数の参加を得て盛会裏に開催されました。
この弓道場は、昭和60年7月26日総合体育館完成と共に竣工しました。道場名は当時の滑川市長宮崎進策氏が命名され、揮毫された看板は道場内に掲げてあります。まず、最初に山岸会長が年頭の挨拶。
次いで、私からは「一年の計は元旦にあり」目標を持つことは大事であるが、最近大谷翔平選手や将棋の藤井聡太さんを持ち出し夢を持つ事の重要性を論じる人が多いですが、私は、まず「志」を持たねばならない。夢は「志」の先にあるものです。
広辞苑で「夢」を紐解くと、「睡眠中に持つ幻覚。ふつう目覚めた後に意識される」とある。これに対し「志」とは「心がその方向に向かう」「成し遂げようとする目標を心に決める」とある。明治の初期札幌農学校の先生だったクラーク博士は米国に帰る時「ボーイズビ・アンビシャス」、「少年よ大志を抱け」と有名な言葉を残した。
「夢を持て」とは言わなかったのを見ても分かるように、志のない人が夢だけを見ると幻覚に終わる。
このようなことを話し挨拶としました。
その後、山岸会長の一手{2本}の矢渡しが行われ、緊張の張り詰めた射場に弦音が響き渡りました。そして、参加者全員が一手を引き、新年を祝い心を新たにしました。
次いで、白扇落とし、射割り、風船割りなど、正月でなければ経験出来ない楽しい企画もありました。
尚、白扇や射割りの板には前会長の高橋芳邦さんが丹精を込めて弓道に関する言葉を揮毫して、的中者にはその意味を解説して贈呈された。
私も若かりし頃の金的や射割りの板を今でも持っていますが、今回の的中者も良き思い出になったと思う。
山岸会長は閉会の挨拶の中で、的までの距離28m、的の大きさ直経36㎝、半径18㎝、男性の矢尺の平均90㎝、これから判断して、矢が離れる寸前狙いが的の中心にあっても、離れる瞬間6㎜ずれただけで、的中心から18㎝ずれるという。
つまり28mの距離で30倍のずれが生じる。故に矢が離れる瞬間狙いが的の中心にあっても、6mm以上ずれると外れるということである。その為には、矢が離れた瞬間でも、左手{押手}の親指と右手{弓掛}の掛け口が的と一直線になった離れ方が的中率が上がり、そこに留意して練習するように説明されたのには、さすが教士6段の説得力のある話で、お正月相応しい稽古始めでした。
写真は、矢渡しの山岸会長。稽古始めに臨む会員。「澄心館」の看板。



(2025/01/05)
初 詣
新しき 年の始めの初春の
今日降る雪の いやしけ吉事 大伴家持
1月1日午前11時、大岩山日石寺{上市町大岩163}に初詣した。
日石寺では、元旦の午前1時、午前11時、午後2時の3回護摩祈禱が行われる。
我が家では、家から近距離でもあり、初詣は日石寺が恒例で今年は好天にも恵まれたこともあり11時に行ったところ、境内は結構な人出で賑わっていた。
日石寺は真言密教の大本山として知られ、神亀2年{725}行基菩薩が大岩川の岩に不動明王を刻んだことが起源と伝えられ、今年はそれから1300年の記念の年だそうです。
高さ3,46mの本尊不動明王像へは四体が凝固岩に手彫りで彫り出され、中部地方の最高傑作として、高い評価を受けており、国指定重要文化財となっている。
ただ、残念なことに、昭和42年7月23日風呂のボイラーの加熱で、入母屋作りの覆いなどが焼失したことです。当日、消防の放水によって磨崖仏に水がかかると、ひび割れを起こすことから、関係者が必死になって放水しないように身体を張って阻止した話はよく聞きました。
その後、信者の方々の支援によって立派に再建された。全国の摩崖仏は露天であるため風化が激しいが、日石寺の摩崖仏は室町時代以前から覆いで覆われていたため、不動明王像の勇姿が今日まで伝えられているのは、全国的に見て珍しいことであると言う。
また、境内には6本滝があり、1月20日の大寒の入りの滝に打たれる寒修行の風景はテレビで全国放送されている。三重塔もあるが、江戸時代に着工されたが、途中工事が中断される今日に至り、未完の塔と言われている。いつ頃まで工事が行われていたのか、前述した火災で資料が焼失した為不明という。家内安全、交通安全等を祈願したお札を購入して帰宅した。
参考まで。
摩崖仏とは、石仏の一種で、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏や明王像の総称。
不動明王とは、密教の信仰対象で、大日如来の化身とされる仏教の尊格。五大明王の一つで、仏法を守護し、人々の災いや迷いから救ってくれる仏。不動明王の姿は、煩悩にまみれた救いがたい者こそ救うため、また仏道の妨げになるよこしまな心を断つため、勇ましいいで立ちををしている。
写真は、日石寺本堂前。本堂内の護摩祈禱。寒修行の行われる6本滝。



(2025/01/03)
謹 賀 新 年
新年は まず我が身の意気を 新たにす 安岡正篤
令和6年は既に地平線下に沈み、ここに新しい年令和7年の幕が上がりました。
干支も「甲辰」から「乙巳」に引き継がれ、月日の流れは休むことなく、新しい時を刻み始めました。昨年のお正月三が日は、元旦、能登半島地震、2日羽田空港滑走路での航空機衝突炎上事故、3日北九州市小倉北地区での大規模火災事故。まさに記憶にも、記録にも残る出来事から始まり、パリ5輪・パラリンピックのメダルラッシュ、秋の衆議院議員選挙での自民、公明連立与党の過半数割れ、そして年末恒例の漢字一字は「金」でした。
理由はオリンピックでのメダル獲得の「光の金」と政治の裏金問題や金目当ての闇バイト強盗事件などの「影の金」そして「佐渡島の金山」の世界遺産登録などが理由に挙げられた。
それでは今年はどんな年になるだろうか。そこで「干支」について少し述べる。
「干支」とはご存知の通り「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせて60通りの年号を作り出す古代中国で生まれた歴法です。それ故、同じ「干支」は60年に一度回ってくることから、還暦、本卦帰り、或は華甲とも言われる。
十干は「甲、乙 ,丙、丁、戊、己、庚, 辛, 壬、癸」の10種類、十二支は「子、丑、寅, 卯、辰、巳、午、未、申、酉、戊、亥、」の12種類があり、順番に組合せ令和7年は「乙巳」{きのとのみ}で上位60通りの42番目で、次の「乙巳」は60年後の2085年です。
「十干」は、古代中国殷の時代に10日を一旬として構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったといわれ、その後、万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、すべての物事は「火」「水」「木」「金」「土」の5つの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。
「十干」は前述の通りの総称で、元は1から10までを数える為の言葉だった。
「十二支」には、よく動物の名が充てられるが、これは中国の王允{おういん}という人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたという。つまり動物の意味は後から付け足された。
例えば、子を鼠にしたのは繫殖力の高い子宝の象徴、子孫繫栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり, 重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が充てられたなどである。
日本には、6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。
幕末維新の戦いを「戊辰戦争」慶応4年{1868}と言う。つまり「戊」つちのえ「辰」の干支の年であり、甲子園球場の名前も「甲」きのえ「子」ね、の干支の年で大正13年{1924}完成したことによる。また、現在でも我々は契約書などに「甲は乙に対して」などの表現に、何の抵抗もなく使用しているし、12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。
さて、今年の干支「乙巳」{きのとのみ}の「乙」は十干の2番目「軋{きしむ}]を意味します。陰陽五行説では木の影のエネルギーを表し、植物が成長し広がっていくような意味合いです。柔軟性や協調性を象徴し、周囲との調和を保ちながら自身の目標に向かって進んでいく力を表しているという。
「巳」は十二支の6番目で、蛇を表します。蛇には一般的にネガティブなイメージもありますが、古来より豊穣や金運を司る神様として祀られることもあり、神聖な生き物として認識されてきました。逞しい生命力があり、脱皮をするたびに表面の傷が治癒していくことから、医療、治療、再生のシンボルともされています。また、運気を上げる縁起物としては定番となっており、蛇の登場する夢を見ると吉兆とされていたり、蛇皮の財布や、蛇の抜け殻を財布に入れて持ち歩くと金運が上がるとも言われています。
巳年生まれの人は蛇のように辛抱強く、粘り強い性格を持つとされています。また、知恵や洞察力に優れているとも言われています。
また、この年は、多くの人にとって成長と結実の時期となる可能性が高いです。「乙」は未だ発展途上の状態を表し、「巳」は植物が最大限まで成長した状態を意味します。この組み合わせはこれまでの努力や準備が実を結び始める時期を示唆しています。
年内には、早い人では具体的な成果が現れ始め、中には大きな成果を手にする人もいるでしょう。しかし、すべての人が同じペースで結果を得られるわけではありません。成長の速度は人それぞれであり、中には時間がかかる人もいます。そのため、令和7年は辛抱強さが試される年にもなります。焦らず粘り強く取り組む姿勢が重要です。自分のペースを保ちながら着実に前進することで、最終的には望む結果に近づくことができる。
参考まで。
60年前、昭和40年{1965}は、前年に開催された東京オリンピックの余韻が残る中、経済発展が加速しました。
120年前、明治38年{1905}は、日本とロシアの間で日露戦争終結のポーツマス条約が結ばれ、日本の勝利が確定した。
1380年前、大化元年{645}は、乙巳の変 大化の改新。中大兄皇子、藤原鎌足が中心になって蘇我入鹿暗殺に始まる一連の政治改革。
さて、当たるも八卦、当たらぬも八卦である。しかし、干支や八卦を信じない人でも、年賀状は殆ど干支を使用するから不思議なことである。
願わくは、昨年より今年は、より良き年になりますように。
写真は、我が家の小さな門松。昨年末清水寺・森清範貫主から届いた干支「蛇珠」の色紙。我が家の正月の床の間、右寄り、薬神農、松鶴蝦齢、天神様。



(2025/01/01)
今年最後の上京
一年を 包む風呂敷 歳忘れ
12月18日{水}全弓連評議委員会出席のため、一週間前の理事会に次いで、今年最後の上京した。18日は11日同様家を出る時は、荒天だったが東京は快晴であった。いつもは、美術館や博物館に行くのだが、今回は快晴のお天気ゆえ初めてスカイツリーに行った。東京駅から地下鉄丸の内線で大手町駅で半蔵門線に乗り換え押上駅で下車。
さて、このタワーは2012年東京タワーに代わって、都内をはじめ、関東全域のテレビ・ラジオの電波を送信するデジタル用の電波塔として2008年7月着工、2012年2月29日竣工した。この地は東武鉄道貨物ヤード跡地でそこを活用した。建築家の伊東豊雄氏の設計、建築デザイン安藤忠雄氏と彫刻家澄川喜一氏監修によるものである。
高さは東京タワーの333mに対し634mで、世界で一番高い塔としてギネスで世界記録に認定された。また、かってこの地は「武蔵の国」とよばれたことから、むさし{634m}になったという。そのアイデアを考えた人は大したものだと思う。地上350m地点では展望台「展望デッキ」、450m地点には「展望回廊」が設けられていた。総工費は12年前で約400億円。
大谷翔平選手は10年間の契約金額が1015億円。タワーが2基以上建設出来ることになる。そう考えると大谷選手はやはり凄い。また、この建設に,関わったのは、延べ58万人と言われる。技術革新が進んだ時代においても、最後は人の手で一つ一つ築き上げられたという。
東京タワーの4分の1の激狭地に建設する難工事を僅か3年半で建設したというから凄いの一言である。幸い当日は快晴のお天気ゆえ、東京タワー、東京ドーム,皇居、隅田川、荒川、東京湾から房総半島、そして富士山など眼下に見下ろす景色は最高であった。
地上から350m地点までエレベーターで僅か50秒たらず。このタワーの建設には県内のアルミ関係の企業の技術も生かされているという。450m地点の「展望回廊」までの入場料は3500円。高いか安いか、その人の満足感であろう。話のネタに一度は行って見るべきと思う。参考まで世界一高い建物は、中東ドバイにあるブルジェ・ハリファで高さ828mである。
午後、全弓連評議委員会に出席し夕方厚労省のメンバー8名と久しぶりの懇談会を開催した。中山審議官の乾杯で懇親に入って和気あいあいに2時間余楽しいひと時を過ごしました。また、帰り、わざわざ私のホテルまで送ってくれたのには恐縮しました。
翌日、総務省に新田審議官を訪ねました。国会開会中にも関わらず30分程懇談の時間を割いて頂いたのにはこれも恐縮しました。今年の余白もあとわずか。お互い来年はよき年であるよう念じ別れました
写真は、スカイツリー前と451mの「展望回廊」と富士山を望む。厚労省メンバー。総務省にて新田審議官と。





(2024/12/19)
第9回長岡すみ子の会
12月15日{日}午後4時から、富山市のオーバードホール・中ホールで恒例の、民謡,唄と踊りの祭典・歳末恒例のチャリティーショーが会場一杯に埋め尽くした来場者を迎える中、今年で9回を数え、今回は「能登半島地震からの復興に向けて」と題し、盛大に開催されました。
前日の自衛隊演奏会に引き続いて、2日間連続で音楽に親しむ機会でしたが、吹奏楽と民謡と言った全く違った分野であり、それなりに楽しみました。
実は長岡さんと私の妻が滑川高校時代の同級生と言う縁もあり、日ごろから親しくお付き合いをしている仲です。さて、ショーは7部構成からなり、
第一部 オープニングは「能登半島への思いを載せて」
・兼六園松づくし ・珠洲山曳唄 {踊り付き} 唄・長岡すみ子 唄いつぐジュニアたち
・新川古代神 {踊り付き} ・チャグチャグ馬子・南部茶屋福し
・越中おわら節 ・三条凧ばやし{踊り付き} おはこ集 {会の皆さん}
・津軽甚句 ・長崎のんのこ節{踊り付き}
・珠洲起舟祝い唄 ・伊勢音頭
・立山木挽き唄 ・麦屋節 ・津軽たんと節 ・秋田大黒舞{踊り付き}
ゲストコーナー1 津軽の響 津軽三味線の椿俊太郎 {高岡市出身}
・津軽じょんがら節 ・津軽よされ節、
津軽あいや節を椿さんの三味線で長岡さんが声高らかに唄い挙げられました。
ゲストコーナー2 妖艶 紋もよう 加賀山 紋{あや}
・越中おわら節 {踊り付き} ・恋路舟唄 ・能登麦屋節 {踊り付き}
・こきりこ節・津軽小原節 {踊り付き} 津軽三味線・椿俊太郎
長岡すみ子コーナー オリジナル演歌集
・能登・岬にて ・お小夜雪慕情 {踊り 筏井豊華翔} 民謡 にしひがし
・長崎ぶらぶら節 {踊り付き}ー長崎さわぎ ・十三の砂山 {山唄入り}
・秋田荷方節 三味線・椿俊太郎 ・帆柱起こし祝い唄
グランドフイナーレ
とやまいきいき音頭 全員
踊り 筏井豊華翔と華の会他 ・三味線・椿俊太郎他多数 ・琴・桂 博子
尺八・坪内隆悦・伊藤寿美隴 ・胡弓・加賀山紋・伊藤寿美隴・鳴り物 同左
以上、30曲余り熱演が繰り広げられました。唄あり、踊りあり、津軽三味線あり、内容の濃い3時間あまりでした。
特に、ゲストの加賀山 紋さんの父親が、長岡さんの師匠で現在金沢在住の民謡歌手加賀山 昭さんです。加賀山さんの実家が珠洲市にあり、今回の能登半島地震で大きな被害が出たと言う。
紋さんが唄う前に、その話をされた時には、うっすらと涙ぐむ時もありました。また、馳知事より、正月に珠洲市で民謡を唄って、珠洲市民に元気をつけて欲しいと要請され、楽しみにしていることなど話されると、会場から大きな声援がありました。
津軽三味線の椿俊太郎さんは高岡市出身の美男子で25歳とのこと。撥サバき、音色どれをとっても迫力満点です。二胡,琴、琵琶、三味線など弦楽器は数多くありますが、迫力において津軽三味線の右に出るものは無いような気がします。正に圧倒されました。
尚、津軽三味線5大曲は、津軽じょんがら節。津軽よされ節。津軽小原節。津軽たんと節。津軽さんさがり。です。
また、「おはこ集」で麦屋節を唄った扇浦遥雅 {はるか}さんは去る9月16日開催された全国麦屋節大会で優勝され、また、11月3日全国民謡民舞大会・青成の部で「布施谷節」を唄い準優勝に輝かれました。この様に後継者も立派に育成されていることに感心します。
また、休憩時間に会員が会場を回って集まった善意の募金額が25万9409円で能登半島地震で被害のあった能登地方と氷見市に贈呈されることが発表されました。
長岡さんの衰えぬ美声と、いつもながらのバラエティーに富んだ内容。社会貢献への変わらぬ思い。十二分に満足した3時間余りでした。
最後に全員がホワイエで来場者を見送ってくれましたが、長岡さんと再会を約し別れました。
写真はパンプレット。椿さんの津軽三味線で唄う長岡さん。フィナーレ。



(2024/12/15)
自衛隊演奏会
12月14日{土}午後5時より、富山市のオーバードホールで、陸上自衛隊中部方面音楽隊による5年ぶりの演奏会が「ミュージックフエスタ2024inTOYAMA」が「震災からの更なる復興を祈念して」と題し開催されました。
第一部は
①喜歌劇「こうもり」序曲 j,シュトラウス二世
②行進曲「グリッドアイアン・クラブ」 j,P,スーザ
③ウインド・イン・ザ・リード P、スパーク
④『ラ・ボエーム』より「私の名前はミミ」G、プッチーニ 歌・ソプラノ・浜野萌々子
⑤トウベルナルトの聖なる泉 八木澤 教司
第二部
①ドリームナイト・クリスマス・パレード
②ニュー・シネマ・パラダイス E,モリコーネ
③雪の華 松本良喜 歌・ソプラノ 濱野萌々子
③クラリネット・サンドイッチ 岩井 直博
④合同ステージ 「情熱大陸」編曲・天野 正道
音楽隊・県立氷見高校吹奏楽部・氷見市立北部中学校吹奏楽部
アンコールとして、合同で行進曲「星条旗よ永遠なれ」など演奏されました。
どの演奏にしても,隊員50名をこす大演奏であり、楽器の種類も私などには数え切れない多さであり、迫力満点であった。特に演奏に合わせ2曲・ソプラノで歌われた濱野さんの歌声も素敵でした。
また、氷見高校と氷見北部中学校の生徒にとっても、めったにない、レベルの高い自衛隊の皆さんとの合同ステージはよき思い出になったと思います。
しかも、「震災からの更なる復興を祈念して」のステージに、大きな被害が出た氷見市の高校と中学が出演したことも意義あることだったと思います。
私達は、自衛隊と聞いただけで、軍隊 戦争を連想しますが、戦後80年戦争に巻き込まれず平和を維持できたのも、独立国家としての外交努力とともに、国力に応じた必要最小限の軍事力を保持していたからだと思います。
もし、警察官や警察署が必要で無く、戦争もない世界を誰しもがそう願う。しかし、万一泥棒が侵入したら、犯罪が発生したら誰が市民の安心、安全を守ってくれるのだろうか。それと同様、万一わが国が他国から侵略されたら、誰が日本を、そして国民の生命・財産を守ってくれるのだろうか。
音楽隊の指揮を執られた伊東隊長は、「こうして音楽会開催している時でも、日本の陸、海、空を24時間、365日守り続けている」。との話には説得力があった。平和は天から降ってくるものでもなければ、地から湧き出るものでもない。これらの人々の努力がある事を忘れてはならないと思う。
災害の復旧復興に果たしている事にも感謝しなければならない。
素晴らしい音楽会であったと同時に自衛隊について考える機会でもあった。
写真は、オーバードホールでの演奏会

(2024/12/14)
久し振りの上京
嬉しやと 二度さめて一眠り
浮世の夢は 暁の空 家康辞世の句
12月11日{水}全弓連理事会で上京した。当日の朝、雨模様のため玄関を出る時、自然とブーツに手が伸びた。待て、今日の天気予報は東京は晴れである。思わず革靴に切り替えた。
案の定東京は快晴であった。西高東低の気圧配置の通り、日本海側は荒れ模様、太平洋側は好天である。東京駅に着くなり、皇居三の丸尚蔵館へ直行した。尚蔵館に関しては、以前詳細に記していますので略しますが、今回の企画展は「公家の書―古筆・絵巻・古文書」「皇室の美術振興・日本近代の絵画・彫刻・工芸」と題し,書の優品と御買上の近代美術の競演であった。
特に、今回出展してあった国宝「金沢本万葉集」は1910年{明治43年}明治天皇が東京本郷の前田邸を行幸した際、16代当主利為{としなり}によって献上された金沢本と呼ばれるものである。
巻2の大半と巻4の一部を合作した粘葉紙の冊子で料紙は和製の唐紙といわれ筆勢の強い変幻自在の筆跡と解説してありました。11世紀中頃の藤原定信筆と伝えられる作品ですが、私には全く読める訳もなく、暫し立ち止まって眺めるだけでした。
それにしても、近代の皇室は同時代の美術に対する保護奨励に大きな役割を果たしたと思う。
例えば、国内の博覧会や展覧会への行幸啓の折は、新聞や雑誌を通して広く報じられたりしました。また、出品作品の購入は侍従を差し遣すなど宮内省を通じて行われたため「宮内省買上」と呼ばれ、作家たちにとって名誉なことであり、今回の企画展にも、明治時代から昭和時代にかけて国内の博覧会や展覧会に出品され、皇室の御買上となった日本画・洋画・彫刻・工芸などであり、その中には、その作家の出世作となったものや、後世の代表作になった作品も多くあるという。美術には無知な私ですが、心癒されるしばしの時間でした。
それにしても、12月半ばと言うのに、皇居内のイチヨウは盛りを過ぎたとはいえ、まだ眺められました。今年の紅葉時期は、やはり温暖化の影響で昨年より10日から2週間ほど遅いそうです。しかし神宮外苑のイチヨウ並木は完全に落葉していました。同じ都内でも随分違うものです。
さて、江戸城の中心は本丸です。この本丸に江戸時代初期、約50年の間に、慶長12年{1607}慶長の天守完成。元和9年{1623}元和の天守完成。寛永15年{1638}寛永の天守完成。三度建て替えられた。しかし、明暦3年{1657}の大火で江戸の大部分が焼失。この時,天守も本丸御殿など江戸城の大半が焼失した。
だが大火の翌年万治元年{1658}4度目の再建計画が建てられ、加賀藩が担当して天守台まで再建されたが、軍事上無用な天守より、町の復興を優先させたといわれ、以後、天守は再建されることなく、同じ本丸の南にある富士見櫓{現存}が天守の役割を果たし江戸時代を終え、今日に至っている。
午後、全弓連理事会に出席し夜帰宅した。日帰りの強行日程であったが久し振りの上京で、歩いた歩数も約1万7千歩と日頃の運動不足解消に繋がったかも・・・・




(2024/12/11)
色紙・贈呈
幾山河 越えて叙勲・金婚丘に立ち
夫婦で歩む 米寿への道 一博の詩
11月24日、石井隆一前知事と志保子夫人の叙勲祝賀会に出席した折、駄作として詠んだ一首を山岡寿海さんに揮毫して頂き、石井さんに差し上げました。
前回のブログでも書きましたが、春の叙勲で石井前知事は旭日大綬章、夫人は瑞宝中綬章と夫婦でダブル受賞と中々ない栄に浴されました。しかも、今年はご夫婦にとって結婚50年、金婚の佳節の年でもあることから、朝日町の春の四重奏ではありませんが、石井家の春の三重奏と思います。そんなことで駄作と知りつつプレゼントした次第です。
本人は大変お喜びになりました。特に、お元気で、この調子なら88歳までは元気で活躍できることを、私が保証して事務所を後にしました。
写真は、12月2日、富山市内の(株)石井アソシエイツ事務所にて。

(2024/12/02)
石井前富山県知事・志保子御夫妻叙勲祝賀会
幾山河 越えて叙勲の丘に立ち
夫婦で歩む 米寿への道 (一博の詩)
11月24日{日}午後5時より、富山市内のホテルで石井隆一前県知事の旭日大綬章と志保子夫人の瑞宝中綬章叙勲記念祝賀会が300人余の多数のご参加のもと盛大に開催されました。ご夫妻が、同時に叙勲の栄に浴されることは大変珍しいことだそうです。
最初に発起人を代表して北陸経済連合会長・金井豊氏がお二人の略歴・ご功績とエピソードを交え挨拶。次いでお二人の活躍・功績を会場内に設置された大型スクリーンを使ってVTRで紹介。
来賓祝辞及びスピーチ
富山県知事・新田八郎氏、参議院議員・野上浩太郎氏、同・堂故茂氏、元・外務事務次官・谷内正太郎氏、富山大学前学長・遠藤俊郎氏、全国商工会連合会前会長・石澤義文氏、以前国から県に出向され、現在経済産業省経済産業政策局長・藤木俊光氏、総務省大臣官房長・出口和宏氏等、出席県議会議員全員が壇上に上がり、代表して県議会議長・全国都道府県議会議長・山本徹氏が挨拶。
この他多数の方々からスピーチがありました。
記念品として旅行券が富山商工会議所会頭・庵栄伸氏からお二人に贈呈されました。また、尾山春枝さん・岩田繫子さん・千田由美子さん等を含め多数の女性の方々から花束の贈呈。受章者謝辞として、前知事は4期16年を振り返り、常に県民の幸せを願い、県政の運営に努めてきたこと。それも出席者の方々を含め、多くの人々のご支援のお陰と感謝の言葉でした。
また、ご夫人は前知事同様感謝と共に沢山の思い出に触れながら、昨夜主人は、今日の挨拶を色々考えていたようですが、意外に短かったのにはホットしました。との挨拶には会場から笑い声と共に拍手も起こりました。和やかな雰囲気が出たところで、乾杯は、出席した県内市町村長全員が壇上に上がり、代表して富山市長・藤井裕久氏が高らかに盃をあげました。
祝賀会に移り、石井ご夫妻が各テーブルをお回りになり私のテーブルにおいでになった時、私はギネスブックに申請すべき2点がある。1点は、夫人がお話になった通り、いつもの石井さんからすると話す時間が実に短かったこと。正直20分は覚悟していた。それが6分で終わったこと。
もう1点は開会の挨拶から乾杯まで1時間51分。色んな祝賀会に出席したが、今回は長かった。これをお二人の話したところ、大笑いになった。
しかし、多彩な顔触れの人々の祝辞であり、スピーチであるので話題も豊富であり、お二人のエピソードも語られる中、県庁OBの方は、一番のアイデアマンは自他とも認める知事である。その知事が私にアイデアを出せ、とい言われるのには困った。など会場が笑いの渦になる話など、内容の濃い1時間51分でした。
以前・元知事の中沖豊氏の叙勲祝賀会にも出席しましたが、それに劣らぬ盛会な祝賀会でした。最後に息子さんの石井隆太郎さん{財務省勤務で現在・在カナダ日本大使館参事官}がカナダから駆けつけご挨拶をされました。
その中で今年は両親の結婚50年であり、金婚式を記念し6月カナダへご夫婦を招待した。そしてカナダでの旅行を計画した。しかし、父はそれよりAIを始めとした先端技術に詳しい政府の方を紹介してくれるように依頼された。そんなエピソードを披露されました。いかにも趣味が仕事らしい石井さんの人柄を示すエピソードでした。
この話を聞いた時、伊能忠敬の「人間は夢を持ち、前へ歩み続ける限り余生は要らない」ふとそんな言葉を思い浮かべました。閉会の挨拶は富山県商工会連合会長・県議会議員・宮本光明氏の言葉でお披良喜となりました。
実は石井さんが消防庁長官の時、長官室でお会いしたのが初めてでした。そんな縁で平成16年知事選に立候補された時、石井隆一滑川後援会会長をお引き受けしました。そんなことで時々我が家で歓談したりし、ご指導をいただきました。
それ故今回のご案内を頂いたんであろうと思います。共に喜びを分かち合い、思い出話に花を咲かせながら、楽しいひと時を過ごすことができたことに感謝です。
以下、ご夫妻の略歴。
石井隆一氏
1945{昭20}年 富山市西町生まれ、富山中部高校 東京大学法学部卒
1969{昭和44}年 自治省入省
1994{{平6}年 自治省財政局財政課長
1998{平10}年 総務省自治税務局長
2002{平14}年1月 消防庁長官 04年1月退官
2004{平16}年11月 富山県知事に就任
2020{令2}年11月 4期16年で退任
現在・{株}石井アソシエイツ 代表 {消防大学校客員教授、多摩美術大学講師など}
県政の重大事項
財政再建・行政改革の断行―約400億円の財政構造赤字の解消
北陸新幹線の地方負担の大幅軽減{約600億円} 上海便・台北便の開設
「立山黒部」の世界ブランド化と黒部ルートの一般開放
東京への税の過度の集中を是正{約4200億円}し、地方への再配分{毎年の増収、富山県約53億円、市町村約25億円}
その他、分野別の重点事項として、産業、農業、まち・観光、文化・スポーツ・人づくり、環境、医療・福祉、防災などで多くの実績を残されました。
「外部の指標・評価」
一人当たり県民所得 2018年度339万8千円{全国5位} 2006年度{全国8位} Uターン率全国2位 幸福度・日本総合研究所・2020年版 全国2位{生活1位、教育2位、仕事3位、健康5位など}
石井志保子氏略歴
1950{昭25}年 高岡市大鋸屋町生まれ、高岡高校、東京女子大学数理学科卒 1984{昭59}年 理学博士{東京都立大学}
1998{平10}年 東京工業大学大学院理工学研究科教授
2011{平23}年 東京大学大学院数理科学研究科教授
2019{令元}年 中国-精華大学兼職教授{2020年まで}
2022{令4}年 東京大学大学院数理科学研究科特任教授 現在に至る
専門は代数幾何学、特に特異点理論
1996年猿橋賞受賞
2011年日本数学会代数学賞受賞
2021年日本学士院賞・恩賜賞受賞
著書・多数あり。
尚、私の様な浅学菲才な者にとって代数幾何学や特異点理論と言っても、よくわかりませんが、女性で猿橋賞や日本学士院賞・恩賜賞受賞をされることはとても凄いことである。と同時に日本の数学者の世界では第一人者であることは,誰もが認めるところであります。
略歴などは当日配布された資料より。
尚、祝辞・スピーチは順不同で記したことをご了承ください。




(2024/11/26)
剱岳&立山
寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳 高島学人
立山連峰の中で、岩肌を剝き出しにし、天に突き出ているのは剣岳だけである。その理由はさておき、746年{天平18年}大伴家持が越中の国守として赴任中、立山を「たちやま」と呼んだ詩を何首も残している。
しかし、奈良時代立山連峰の山々に名前が付いていたとは思えない。現在でも「雄山」はあっても「立山」の山の名はない。つまり3千m級の山々が屛風のように連なっている山々全体を、立つ山・立山と呼んだ、という説がある。
富山平野から立山連峰を眺めた時、畏敬の念や、信仰の対象になりえるのは、岩峰鋭く刀のような鋭いことから「太刀」となり「剣」そして「劔岳」となり、連峰全体を立山連峰と呼んだ。私もその考えを支持したいが・・・・
家持は「立山{たちやま}に降りおける雪を常夏に 見れども飽かず神むらならし」と、夏でも雪のある立山は、いつ眺めても飽きることはない。と詠んでいる。
その立山に雪が舞った。 富山気象台は8日、立山の初冠雪を観測したと発表した。前日には室堂で冠雪あったことは確認されているが、初冠雪の判断は、富山市石坂の同気象台から職員が目視で行う。9~10月が記録的な高温になったことが影響したという。
桜の開花宣言も、標本木に5輪以上の開花を目視で確認するのと同様である。それにしても遅かった。平年より27日、昨年より31日それぞれ遅く、観測史上2番目に遅かった。
富山気象台が1939年の観測開始以降、最も遅かったのは1977年の11月9日で史上2番目の遅さと言う。富士山も同様であった。11月に入り、沖縄県や鹿児島県では線状降水帯発生で、豪雨被害が出た。一方本州では25℃を記録する夏日である。
加えて11月に台風22・23・24・25号と同時に4個が発生することも初と言う。海面の水温が高く、夏モードで台風が発生しやすい状態であると言う。いづれにしてもしても地球温暖化は間違いない。
表句の一句は、私の町内にあった高島医院の医師であり、俳人であった高島学氏{号・学人}の句であり、新雪頂く劔岳の美しさを或は厳冬期の人を寄せ付けない厳しさを表現した名句で私も好きな句の一つである。
写真は、11月9日午後4時30分頃、夕日に映える「劔岳」と「雄山」。市内菰原地内より。


(2024/11/10)
日露戦争
日露戦争と言えば、旅順要塞攻略の乃木希典やロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎を思い出す。
私は9月東大阪の司馬遼太郎記念館と翌日下関市長府の乃木神社を訪ね、乃木記念館や乃木夫妻と敵将ステッセル将軍から贈られた愛馬壽号の銅像や「尋常小学校国語読本」に掲載された「水師営の会見」の歌に出てくる「庭に一本{ひともと}棗{なつめ}木」の四代目が植えてあった。
これらは先般の私のブログに書いた。その後、10月31日付け北日本新聞に「戦地から家族思い170通、日露戦争出征祖父の手紙書籍化」と題した記事が掲載された。
それによれば立山町から戦地に赴いた男性が、家族にあてた手紙170通を、孫の内田忠保氏が、書籍「望郷の月」にまとめた。銃弾飛び交う戦場での日々や死への覚悟、望郷の念など、一兵卒のありのままの思いを伝えている、県公文書館によると、日露戦争に従軍した兵士の手紙が纏まって残っているのは県内では例がなく貴重だという。
手紙を書いたのは、内田さんの祖父、内田一忠さんで1904年8月31日に召集を受け、金沢の第9師団歩兵第35連隊補充大隊第四中隊に配属される。約70日間の連隊での訓練を経て旅順要塞攻撃や・奉天会戦で防御工作や斥候を担った。1906年2月2日帰郷している。入隊の訓練期間を含め従軍期間は約17か月にわたる。
1904年9月16日の第一報から1906年1月16日付まで170通確認され、従軍期間から考えると実に3日に一通の割りである。「望郷の月」にも解説文を寄せた県公文書館資料調査専門員、栄夏代氏の協力のもと今回出版された。栄氏によれば「激戦をくぐり抜けて奇跡的に帰郷した農民兵が、戦況や感情を自身の言葉で書き残している。とても価値ある記録だ」と説明。
これらの記事を読んだ時、冒頭述べたことも加わり、早速内田さんにお願いし、「望郷の月」を入手し読んだ。記事の中で内田さんは、日露戦争を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」は将校の物語なら、祖父の手紙は一兵卒の真実の記録。一人一人が笑ったり涙を流したり、様々な感情を抱きながら生きていたことに気付かされる」と述べておられる。私は、本棚から司馬遼太郎の「坂の上の雲」と乃木希典を描いた「殉死」を取り出し改めてこの2冊をサッと読んだ。
「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしてしている 四国は伊予松山に三人の男がいた この古い城下町に生まれた秋山真之は 日露戦争が起こるにあたって 勝利は不可能に近いと言われた バルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て それを実施した。
その兄 秋山好古は日本の騎兵を育成し 史上最強と言われる コザック師団を破るという奇跡を遂げた もう一人は 俳句・短歌と言った日本の古い短詩形に新風を入れて その中興の祖となった俳人・正岡子規である。彼らは 明治という時代人の体質で 前をのみ見つめながら歩く 登ってゆく坂の上の碧い天に もし一朶の白い雲が輝いているとすれば それのみを見つめて 坂を登ってゆくであろう」
確かに内田さんが指摘するように「坂の上の雲」はこの3人を主人公に物語は展開する事を思うと将校の物語である。しかし、一忠さんのハガキや書簡は前述した通り一兵卒の生の声である。記事の中で、旅順要塞攻撃のさなかに書かれた1904年11月26日付の手紙には「先26日の大砲の声及び小銃の声は天地に轟はたり」「弾丸の下に飯を喰ろて」「わが軍決死隊となり何分此度は戦死か負傷を致す積りと思居り」とあり、激戦の中で死を覚悟したことが読み取れる。
奉天会戦後の1905年3月30日には、自身と同時期に出征した第4中隊の230人が「残念50名をりません」と記し、多くの死傷者が出たことを伝えている。また、内田さんが特に印象に残っているのが、同年2月20日付の一通だ。「こちらで丸い月を眺めた。故郷の家族も変わらず健康で、同じ月を眺めていると思うとうれしい」といった望郷の念がしたためられており、書籍のタイトルはここから着想した。
「戦地でも古里を大切に思っていたことに感動した。人間味にあふれた優しい人だったのだろう」と内田さんの言を報じている。
また、本の中で1905年1月3日付の手紙では、
「謹啓 就いては特に特にたる旅順口もついに1月2日を以て陥落せり 先昨月31日午前7時に出て採業を致す又戦争す翌日明て目出度と新年祝と一度に一の井砲台山を自分我等は占領す又左側の砲台山を35連隊の三大隊を以て占領す又同夜けかん{鶏冠}山を11師団は占領す 実に万歳の声は天下に轟きけり 旅順口は此の山より三・四町程の麓なり故降参人又種々の人名降附せり 就いては我々は明後日を以て旅順口へ入る次第故何分此度は万歳にて正月を致す被下度候 さて軍隊の正月は旅順にて致近頃は隊より沢山なる魚酒沢山牛肉当たる候故又身体は壮健にて旅順口の陥落の採業を致したる事は実に自分等の幸福と云ふべし 就いては近近20日前より日夜寝たる事は実に僅かにて二三夜分丈寝たる事故此度旅順は我々の掌へ入りたり次第実に愉快の事なり 先此度全く壮健にて旅順へ入りたる故御家内始め親類隣近傍迄酒肴にて祝いて万歳を唱へ被下度此段希望仕候 就いては自分之事を寸分たる共心配之無当地の万歳を祈る余は後便にて申候へ共御家内様の壮健を祈る。」
これが1月3日の手紙である。203高地が陥落し、1月2日水師営の民家において日露両軍の委員による事務折衝が行われた。日本軍の委員は伊地知幸介であった。そして5日有名な乃木希典大将とステッセル将軍との「水師営の会見」が行なわれた。故に一忠の書簡は1月2日、3日8日2通、9日、10日付などの書簡は旅順陥落を正月と共に祝い、酒、魚,沢山出され、加えて牛肉まで振舞われたことがわかる。
しかし、この間一日僅かしか寝ていないけど元気でいること、家族の健康を案じていることがわかる。そして、170通に共通しているのは、平和を願い、望郷の念を抑えながらも、家族を案じ、農作業にも心を寄せていることである。ここが、将校の日露戦争でなく、一兵卒の率直な心を吐露した物語との大きな違いであろう。
ご存知の通り日本がロシアに宣戦布告をしたのは、1904年2月10日である.この時陸軍は、すでに第一軍司令官に黒木為禎{ためもと},第二軍司令官に奥保たか、で大陸に兵を展開している。そして旅順の存在を軽視した。10年前の日清戦争の時に乃木希典は旅団長の少将として従軍し、師団と混成第12旅団をもって、わずか1日の攻撃で落とした。しかも、この1日の戦闘で日本軍の死傷者はたった280余名であった。この10年前の経験が軽視の一因となった。
ところが、旅順要塞はその後人知を尽くし,巨費を惜しまず天嶮山に加え,人工の極至をもって築き上げた。露将クロパトキンが「永久に難攻不落である」と言った大要塞であった。この様な状況の中で、日本海軍は旅順港内に停泊中の極東ロシア艦隊がいる。これに自由を許せばやがて極東に回航されるだろうバルチック艦隊に加われば,日本海軍も勝ち目がない。そこで海軍は旅順艦隊を港内に閉じ込めようとした。
旅順港はその港口が極めて狭く、老朽船舶を港口に沈めることによって閉ざそうとした。このため決死の閉塞隊が募られ、敵の要塞砲火を冒して何度も決行するが成功せず、ついに絶望視された。このため、陸軍によって要塞をその背面から攻め、それを攻め陥すことによって旅順艦隊を港外に追い出し、撃沈する以外にないということになった。
海軍は陸軍にそのように要請し、大本営参謀本部も了承した。そして第3軍が編成されることになり、その司令官に乃木希典がなる。乃木は、日清戦争での旅順経験者であり旅順を知っている、土地の案内に詳しい。理由はほぼこれである。乃木が新設の第3軍司令官として現地に赴くべき東京駅を離れたのは開戦後3ケ月を過ぎた5月27日である。
そして、6月1日宇品を出港し、6日、金州湾に上陸した。その後金州城から南山要塞にかけての新戦場を視察した時、乃木は金州城の東門の前に馬をとどめた。。実は長男勝典が小隊をひきい金州城の北門に向かう途中この東門付近にさしかかり、その楼上からにわかに機関銃の射撃を受け南山野戦病院へ担ぎ込まれたが死亡する。この経緯は乃木は知っていた.帰路、夕刻になり、満州特有の血のように赤い落日が南山の一帯を染めた。乃木は馬を止め詩を賦した。
これが有名な「金州城外斜陽に立つ」の漢詩である。
「山川草木転荒涼{うたたこうりょう}十里風腥{なまぐさし}新戦場 征馬不前人不語{馬前に進まず・人語らず} 金州城外立斜陽」と詠んだ。私も、2012年7月この地を訪れた折、この詩の上の言葉を引用して漢詩擬きの詩を詠んだ「山川草木深青松 十里風穏古戦場 人馬一體賑金州 百年遥憶感無量」。
参考まで、正岡子規は日清戦争の時従軍記者として、金州城を訪れた時「春風や 酒をたまわる 陣屋かな」の句を残している。さて、この時でさえ乃木は、現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が8年の歳月とセメント20万樽を使って作り上げた永久要塞で、すべてべトンをもって練り固め、地下に無数の塹壕を持ち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それを塹壕と塹壕とを地下道をもって連絡している。
たとえ野戦砲兵をもってこれを砲撃しても何の効果もないことも知らなかった。この様な中で旅順要塞攻撃は8月19日の第一回強行攻撃から何度か繰り返された総攻撃も鉄条網に悩まされ、新兵器の機関銃に倒され旅順の山々の斜面はことごとく日本兵の屍で覆われた。この戦局を変えたのは海岸要塞砲ともいうべき28センチ榴弾砲である。旅順の1m30のべトンを割るには最低22センチの口径の砲が必要だが、日本には28センチ砲がある。東京湾観音埼砲台にそなえられている特殊海岸砲であった。
しかし、砲一門そのものの機構が鉄製の城塞のように巨大で、原則移動は不可能とされ、もし移動するとすれば、その据付工事だけで1カ月以上かかるとされた。しかし、この案以外にないと決定した。日数の多くは砲床のべトンの乾きを待つことであり、直ちに砲床構築班を先発させれば日数の節約になる。おそらく砲が到着してから10日で第一発を打てるとし、そして解体輸送され、戦地に送られる。
203高地。それは旅順攻撃の象徴的存在になったが、この攻略もまた海軍からの要望であった。この高地からは港が一目で見える。ここに28センチ榴弾砲を備え付ければ、旅順艦隊を撃滅することは容易である。その巨砲12門が要塞正面で火を噴いたのは10月1日であった。以後、犠牲を払いつつも2か月後旅順は陥落する。ただ乃木の次男保典も203高地で戦死する。前述した金州城と共に203高地や旅順の水師営の会見場となった民家を私も訪れているので感慨深く内田一忠さんの書簡を読んだ。
さて、司馬遼太郎が乃木希典を描いた小説「殉死」がある。この中で司馬は「筆者はいわゆる乃木ファンではない。しかしながら大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と書いているが、、しかし、「殉死」の文中には、乃木の軍人としての無能さを表現する言葉が随所にでてくる。例えば、司馬は「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」や「児玉源太郎にとって乃木は無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さゆえに殺したいほどに腹だだしかった」など数多くある。また、乃木自身も戦いが終わった直後、陸相の寺内に出した手紙に、「無知無策ノ腕力戦ハ,上二対シ下に対シ、今更ナガラ恐縮千万二候」と手紙に書いている。
この様に乃木の軍事的無能さを表す文章は「殉死」の中で随所にでてくる。無論これは、司馬のあくまで小説であり、これに対し反論もある。ただ無能な司令官を何故更迭ができなかったか。それは理論的には攻略中に司令官を更迭することは、全軍の士気に悪影響を及ぼすということと、海外特派員によって世界にそのニュースが流れることは、戦費調達のための国債の発行にも大きな影響があったと思われる。
いずれにしても、軍神と言われた乃木希典がもし「殉死」の小説の通り軍事的には無能な指揮官であったら、そのもとで古里を思い、肉親を思い、友を思い、農作業を心配しながら死んでいった兵士は浮かばれないと思う。
つまり、日本国,或は都道府県や市町村の司令官が政治や自治に、また会社の司令官が企業の経営が無能であったら、それこそ国民や社員が不幸になる。そんなことを考える機会でもあった。
私が203高地を訪ねた時、「爾霊山{203高地}には砂礫に混じっていまも無数の白骨の破片がおちている」とか「雨が降れば人のあぶらが流れる」と言ったような話がまことしやかに語られていた。そんな激戦地を生き延び、その後北進。、これも激戦の奉天会戦で第一線で戦い生き延びた内田一忠さんは奇跡のようなものである。その彼が残した170通余りのハガキや書籍は、歴史的にも貴重な資料であり、これを出版されたことは、内田家の先祖への供養にもなったことと思う。
「記憶とは、いつか忘れ去られる。記録は一と時の出来事を永遠なものにす事が出来る。記録は、世の片隅の出来事を、全体なものにすることが出来る。記録は、名もなき人の行為を、人類に結びつけるも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る」改めてこの言葉を思い出した。
尚、一忠さんはその後、村会議員や村の助役も務めたという、几帳面で誠実な人であったろうと思われる。
尚、文の一部は司馬遼太郎「殉死」文芸春秋発行「坂の上の雲」と「日露戦争」より引用。
写真は、
①内田忠保氏出版の「望郷の月」
②1905・1・5旅順の水師営の会見で乃木将軍とステッセル将軍
③2012・7水師営会見場で私
④乃木将軍の漢詩と私の漢詩擬き
⑤奉天城内八将軍の会合 左寄り黒木第一軍司令官・野津第四軍司令官・山形有朋元帥・大山巌元帥参謀総長・奥第二軍司令官大将・乃木第二軍司令官大将・児玉源太郎満州軍総参謀長大将・川村景明鴨緑江軍司令官大将・明治35年{1905}7月26日撮影





(2024/11/08)
菊地第11代氷見新市長を励ます会
金色の 小さき鳥の形して
銀杏散るなり 夕日の丘に 与謝野晶子
能登半島地震で年が明け 猛暑、台風、線状降水帯によるゲリラ豪雨被害など、各地で観測以来の何々新を数多く記録した今年も、2か月を切った。
さて、林氷見市長の健康上の理由で突然の辞任表明後、自薦他薦など数名の名前が挙がったが、最終的に自民党氷見市連や経済界などを中心に協議の結果、富山県経営管理部次長‣菊地正寛氏{56歳}が即戦力としての期待から、林市政の後継者として一本化され候補者として要請されました。
これを受け本人も熟慮の結果要請を受託し、県庁を退職し選挙戦に望まれました。結果は無投票当選の栄に浴され、11月9日から第11代氷見市長に就任されることになりました。無投票当選は、本人の人徳のしからしむところと思います。
氏とは、以前からの知人であることから、11月1日氏の友人を交えて、ささやかなお祝いと激励会を開きました。
また、当日は水野市長も出席し互いの情報交換も含め、親交を深めたようでした。
私からは、人生の先輩の一人として、市長は政治家であり、行政の長であることから、次の言葉を贈りました。
「政治とは、現実を理想に引き上げる機能であり、自治とは「耕不尽」耕せど尽きることなき営みである」と述べ激励しました。
氷見市は、能登半島地震からの復旧復興が急務の中、様々な問題が山積していますが、菊地さんなら豊富な行政経験を基に、必ずや市民の負託に応えてくれると思います。また、菊地さんも全力で頑張る旨、力強い発言もありました。
6時30分から9時30分まで、約3時間あっという間に過ぎ去りました。

(2024/11/02)
琵琶追悼演奏会
肩にきて 人にやさしき 赤とんぼ 漱石
錦心流琵琶第59回富山支部{支部長・嶺瑛水 後援会長・中屋一博}の秋季演奏会を前支部長・杉本紫水{操}追悼演奏会を兼ね、10月14日午後1時から富山駅前マリエ7階県民小劇場オルビスで開催されました。
当日は杉本さんにご縁のある東京より全国一水会本部名誉顧問・森中志水先生を始めとして、金沢・福井両支部からも友情出演がありました。杉本さんは昨年11月28日突然不帰の人となられました。享年81歳でした。
私が最後に杉本さんの演奏をお聞きしたのが、昨年10月22日高岡市能楽堂で開催された秋季演奏会が最後でした。その時、現役最高年齢奏者で90歳の吉崎楓風さんと「富士山」を合奏され、薩摩琵琶特有の大きな撥を華麗に捌き、力強い音色と語り口が遺憾なく発揮され会場を埋めた多くの聴衆を魅了された姿が忘れられません。その後、11月に入り高岡の演奏会の写真を届けていただいた時、お話したのが最後の別れとなりました。
そんなことで,去る5月5日滑川で開催された春季演奏会も杉本さんの出身地でもあり、一応追悼演奏会としましたが、今回は杉本さんとご縁のある本部から森中先生、また、金沢・福井両支部からの友情出演もあり正式な形で追悼演奏会となりました。
当日は1時開演でしたが、10分前に杉本さんが平成29年「じょうはな座」で「井伊直弼」を演奏されたビデオが上映され、在りし日の杉本さんを偲びました。今回12名の方が演奏されましたが、ほとんどが以前杉本さんが演奏された曲目であり、ここでも杉本さんに寄せる思いの表れであったと思います。
また、杉本さんが演奏された「井伊直弼」も会員が演奏したり、春季演奏会でも演奏された、大内隆作詞「晩歌」に、高堂隴水さんが、在原業平の辞世の歌「ついに逝く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」や漢詩・安藤漢城作「追悼の詞」を挿入し、演奏途中「杉本先生 杉本先生」と叫び朗々と奏でられたのには、胸を打たれました。特別出演の森中志水先生は、杉本さんにとっては何かと相談できる頼りがいのある人で、大変親しく接しておられました。森中先生の名は志水。杉本さんは紫水。両者とも「しすい」これも何かの縁かと思います。
それにしても、琵琶を始めて30年、これからまだまだ期待されていただけに、やはり残念であり、世の無常を感ぜずにはおれません。また、昨年90歳で出演された吉崎楓風さんは、今年は91歳で出演され、杉本さんの娘さんである有澤結水さんと「月下の陣」を合奏されました。91歳でも琵琶にかける情熱には驚きますし、私自身に元気,勇気を頂くような気がしました。
「人間は、夢を持ち前へ歩き続ける限り 余生は要らない」伊能忠敬の言葉を思い出します。いづれにしてもこの雰囲気は、杉本さんに届いたような気がしました。演奏会終了後懇親会を開催し、再び杉本さんの思い出に暫し浸りました。
写真は、挨拶する私。在りし日の杉本さん。嶺支部長挨拶。最高齢の吉崎さんと有沢さんの合奏。





(2024/10/16)
滑川温水プール開設30周年記念
10月14日滑川温水プール開設30周年記念式典がサンアビリティーズ滑川で、関係者多数出席のもと開催されました。
式典は佐藤裕彦理事長の挨拶に次いで、水野市長、尾崎市議会議長の祝辞、私を含めた来賓紹介、続いてプール開設以来30年の永年会員個人と法人及び高齢者の約30名が表彰の栄に浴されました。
短時間ではありましたが厳粛な式典でした。
意外だったのは30年の長きにわたりプールに通い続ける方が30名近くもおられることに正直言って少々驚きました。一口に30年と言っても中々出来ることではありません。
いずれにしてもこの施設が、滑川市並びに周辺地域の人たちの健康増進、体力増強等に大きな役割を果たしていることを改めて再認識をしました。
そこで、本市に現在の室内温水プールが建設された経緯について多少記しておきます。
平成4年頃から市内の水泳関係者を含め、2万人を超える署名を添えて、市当局、市議会に「市営温水プール建設」の陳情が出されました。昭和60年に滑川市総合体育館、平成3年武道館が建設されました。
他市にあって本市に無いのは温水プール。そんな思いが陳情活動に繋がったと思われます。当時はバブル経済の真っ只中、全国各地の自治体が地域活性化の名の下、競うようにハードな施設の建設ラッシュでした。竹下首相の「ふるさと創生」として、全国3300余の自治体に1億円を配ったのもこの時代です。国も地方も多少財政に余裕があった時です。
現在と比較すると実に羨ましい限りです。
しかし、当時の本市は滑川中学校と早月中学校の2校の新築を計画しており、プールの建設費は一時的であるが、問題は年間の維持管理費です。当時の試算では3500万円から4500万円程とされました。2校の中学校新築の大型事業を抱えている中で、果たして本市の財政状況で、毎年これだけの支出に耐ええるのか。これが議論になりました。
そんな時、全国各地で温水プールの運営に携わっていたのが、公益財団法人・体力づくり指導協会{事業本部・東京都江東区大島1丁目2-1}でありました。当時の理事長は日本レスリング協会の笹原正三氏であり、その人脈の中に現在滑川市名誉市民の福田富昭氏、加えてこの様な施設の整備に補助金を出していた宝くじ協会に本市に縁のある方もおられ、この協会に運営を委ねる話が持ち上がりました。
その結果、市内に温水プールがないことも考慮し、準市民プール的な存在とし、幅広く市民に利用できるように要望を付け、土地は無償貸与、建物は体力づくり協会と宝くじ協会の補助金等と市費で建設することとなった。
当時の資料を見ると、
竣工式・施設オープン 平成6年7月6日
建設費総費用 4億4496万円
市の補助 約48% 2億1358万円
市の運営管理補助金 年間1344万円
利用料金 大人 300円
プール 25m×7コース 水深1,2m 室内温水プール。
子供から大人までの水泳教室も開催する。
そして建物は集成材を使用した木造建築物として注目を集めてオープンしました。
また、厚生連滑川病院も準市民病院的な総合病院として、市より補助金がでています。近年では、氷見市民病院が建物の建設費は氷見市が負担し、管理運営は金沢医科大学が行い、温水プール同様補助金を出すものです。
いわゆる官民連携による、公設民営化です。
これによって市営でやるよりも、建設費も年間の維持管理費もかなり軽減されます。そして30年後の今日を見ますと、利用料金・大人300円が450円と値上がりしていますが、年間の管理運営費は1374万円余りと殆ど変化はありません。燃料の灯油は平成6年は1㍑50円は現在では倍以上の価格です。消費税も当時の3%から現在では10%。当然のことながら賃金も、各種の維持費も30年間ではそれなりに値上がりしています。こう考えると利用料金の値上げは止むを得ないと思います。
ただ、施設の大規模修繕や改修などは、過去何度かあり、市はその都度応分の負担はしていますが、これだけ長期間運営管理補助金が据え置かれてきたのは不思議な感じがします。もし、市営プールであったら恐らく相当な金額になっていると思います。各種の水泳教室などの企画を通し、地域の人たちの健康増進、体力増強に果たしている貢献は極めて大きいものがあると思います。
また、競技力の向上も目覚ましいものがあり、昨年当プールを利用している早月中学校男子2年生が全国ジュニア・オリンピック・カップで数種目で金メダルを獲得。同選手は12月オーストラリアのクインーズランドで開催されたジュニア・オリンピック11歳-12歳区分で数種目で大会新で優勝するなど、個人の部で7個、団体で2個、計9個の金メダルを獲得するなどの快挙を挙げ、これに続けと魚津西部中学校1年生の生徒もジュニアオリンピックカップで好成績を挙げ「滑川温水プール」の名を一躍有名にしました。
これらのことを総合的に考えると「体力つくり指導協会」の経営努力には敬意を表したいと思います。
今後とも1人でも多くの人が「滑川室内温水プール」を利用することです。そして地域住民の健康づくりに貢献する施設として、愛され、親しまれる温水プールとなるため、行政・地域住民・協会が連携してゆくことが大事であると思います。
写真は、挨拶する佐藤理事長。温水プール外観と内部。



(2024/10/15)